Aristoteles, Metaphysica
第4巻(Γ)
第1章と第2章では、この科学について、事故はひとまず脇に置いておく(それ自体には存在しない)と彼は語る。また、類推(1つの事柄が異なる方法で前提とされる)という概念も紹介している。
彼は、よく知られた力強い言葉で次のように述べている。「何かが何かである限りにおいて、そしてそれが持つ属性において、何かが何であるかを研究する科学
がある」(IV,
1003a21-22)。アリストテレスはすぐに、そのような科学は「特定の科学のいずれかと同一視されるものではなく、むしろ存在しうる研究対象の中で
最も広範かつ最も理解しがたいものである:存在すること」と付け加えている。実際、特定の科学のどれも「存在するもの」を普遍的に扱うものではなく、むし
ろそれぞれが現実の一部を区分し、その区分された部分に属する性質を研究するものである(1003a23-26)。したがって、アリストテレスは普遍性を
目的とした科学的試みとして存在論を提案している。この普遍性は、あるがままの「あるもの」の研究に相当すると思われる。つまり、火や数や線といった「あ
るもの」の研究ではなく(IV 2, 1004b6)、この場合はすでに特定の科学(それぞれ物理学、算術、 。
しかし、このような科学の構成は、すぐに実質的かつ根本的な困難に直面する。
現実についての我々の議論において、明示的であれ仮想的であれ、「~である」という動詞(eînai)と「~であること」という分詞(òn)が遍在してい
るという事実が、統一的かつ首尾一貫した処理が可能な対象の統一性に対応する概念の統一性を保証するものではない。対象の統一性なくして科学の統一性はな
く、概念の統一性なくして対象の統一性はない。
アリストテレスは、この難しさを十分に認識している。パルメニデスやプラトンとは異なり、アリストテレスは「~である」という動詞の多義性を、そのさまざ
まな用法や適用において認識している。したがって、次の章(IV
2)は、「『存在するもの』という表現は多くの意味で言われる」という命題を確立することから始まる。tò dé ón légetai
pollachôs
(1003a33)という命題であり、アリストテレスはこれを決して放棄しなかった。むしろ、彼の見解では、言語と現実に関するあらゆる考察は、この疑い
の余地のない事実の認識と承認から出発しなければならない。
ピエール・オーベンクが正しく指摘しているように、アリストテレスが直面したアポリアは、要するに、明白に矛盾する3つの命題を同時に維持することから生じる。
「存在するもの」についての「科学がある」という
唯一性がある場合にのみ、科学の統一性は存在し得る。「属の統一性がある場合」
「存在するもの」という表現には唯一性が欠けている。「『存在するもの』は属を構成しない」
これらの命題の結合は全体として見ると、
論理的に成り立たないことは明らかである。アリストテレスは、現実的には、最初の2つの命題を修正する道を探そう
とした。2番目の命題を修正することは極めて重要である。「存在」は、もちろん、一義的な概念ではなく、多義的な概念である。しかし、アリストテレスは、
その多義性は純粋な同義性や同音異義性ではないと指摘する。両極端の間にあるのは類似性である。
「~である」と「~とは何か」という異なる意味の間には、アリストテレスが「健康」という言葉の異なる用法の間に存在する関係に例えるような、ある種のつ
ながりがある。少なくとも、生物、色、食物、気候は「健康である」と言われる。そして、それぞれのケースで異なる言い方がされる。
生物の場合は健康が存在するため、
色については、それが健康の兆候であるから
食べ物や気候については、それぞれが独自の方法で健康に良いから
しかし、これらすべてのケースにはある種のつながりがある。つまり、それぞれが同じもの、すなわち健康を指しているのだ。これはアリストテレスによれば、動詞「to be」とその分詞「that which is」にも当てはまる。次の文章で説明されているように
「あるものは、それらが実体(ousíai)であるがゆえに存在すると言われ、またあるものは、それらが実体の情動であるがゆえに存在すると言われ、また
あるものは、それらが実体に向かう過程であるがゆえに存在すると言われ、あるいはまた、それらが実体の腐敗や欠乏、あるいは性質、あるいは生産要因、ある
いは生成要因であるがゆえに存在すると言われ、あるいはまた、それらがこれらのもののうちのいくつか、あるいは実体の否定であるがゆえに存在すると言わ
れ」
形而上学。第4巻。2、1003b 6-10
したがって、「~とは何か」という言葉の
持つさまざまな意味は、あるもの(pròs
hén)への共通の参照、同じもの(現実の領域)への参照、同じ概念や意味(言語の領域)への参照によって、独特な統一性を持ち、多様性を獲得する。使用
された例における「健康」への参照、および存在論的探究における「実体(ousía)」への参照。
したがって、このような形の統一には、動詞「~である」のあらゆる用法において常に言及または想定される、根源的かつ普遍的な基本用語(および概念)が関わっている。
「単一の自然」(mían tinà phýsin: 1003a34)
「単一の原理」(arché)
「同様に、『存在するもの』も多くの意味で語られるが、いずれの場合も単一の原理との関連においてである」
『形而上学』第4巻、2、1003b 5-6
「存在するもの」と「存在するもの」とい
う多義性のこの微妙な解釈に沿って、アリストテレスは、上述の第二の命題、すなわち、単一性がある場合、属の単一
性がある場合、科学、科学の単一性のみが存在しうるという命題も補強している。厳密な意味で属していない場合でも、参照の単一性は科学の単一性を可能にす
る。
「実際、単一の意味に従って名付けられたものだけでなく、単一の性質に関連して名付けられたものについても研究することは、単一の科学の課題である。なぜ
なら、それらもまた、単一の意味に従って、ある方法で名付けられているからだ。したがって、あるものとしてあるものについての研究もまた、単一の科学に対
応することは明らかである」
形而上学。第4巻。2、1003b 12-16
さらに、このような場合、常に第一のもの(参照の共通項、我々の場合は実体またはオイア)が存在するため、このように構成された科学は、第一のものについて優先的かつ根本的に扱うべきである。
「さて、あらゆる場合において、科学は基本的に第一のもの、すなわち、他のものが依存し、それによってそれらにふさわしい名称が与えられるものに関わる。したがって、これが存在であるならば、哲学者は存在の原理と原因を把握していなければならない」
『形而上学』第4巻 2, 1003b 16-19
第一哲学は後に形而上学と呼ばれるが、それは存在論(存在学)である限りにおいて、最も一般的な科学である。アリストテレスはこれを第一哲学または神学と呼び、知恵(ソフィア)と同一視している。彼は『ニコマコス倫理学』の第5巻でもこのテーマについて論じている。
第3章以降、彼は矛盾の原理について掘り下げ、同じ命題が同時に「ある」と同時に「ない」ということはありえないと論じている。また、これに関連して、排中律(tertium non datur)の原理では、矛盾する命題の間に中間的なものは存在しえない。
アリストテレスの『形而上学』は、全14巻のものであるが、全体としてのまとまりはない。それは、それぞれ別の時期に書かれた論文・講義草稿・ 講義録の類の集成だからである。ただし、 第1巻(Α)- 第3巻(Β)- 第4巻(Γ)- 第6巻(Ε) 第7巻(Ζ)- 第8巻(Η)- 第9巻(Θ) 第10巻(Ι)- 第13巻(Μ)- 第14巻(Ν) の3群は、それぞれ内容的にまとまりが認められ、紀元前2世紀末の著作目録の記述から、元来この書物はこの10巻構成でまとめられ、 第2巻(α)、第5巻(Δ)、第11巻(Κ)、第12巻(Λ) の4巻は、別の独立した著作が後から補足的に追加・挿入されたものだと考えられる[5]。
リンク
かいせつ
第4巻 - 第一義的存在
第4巻(Γ) - 第一義的存在(全8章)
第1章 -
「存在としての存在」とその「自体的属性」を対象とする学の必要性。諸存在の「最高の原因」を求める我々の学(第一哲学)は存在を存在として研究しその
「第一の諸原理」を求める。
第2章 -
それゆえ我々は「第一義的存在」すなわち実体を研究し、その自体的諸属性、一と多、その他それから派生する種々の対立的根本概念を研究せねばならない。こ
の「哲学者の学」は、「弁証家の術」とも「ソフィストの術」とも異なる。
第3章 - また我々の学は実体を研究する他に、論証の諸前提・諸公理、ことに矛盾律についても考えねばならない。
第4章 - 矛盾律に論証を求めるべきではない。矛盾律否定の不可能性は弁駁的に証明される。矛盾律の否定者に対する7つの弁駁。
第5章 - プロタゴラスの感覚的相対主義に対する論難。
第6章 - 相対主義に対する論難の続き。
第7章 - 排中律とその擁護。
第8章 - 全ての立言が真であるのでもなく偽であるのでもない。全ての事物が静止しているのでも運動しているのでもない。
文献
その他の情報
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