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エクアドル入門

Introduction to Ecuador


池田光穂

エクアドル共和国(エクアドルきょうわこく、 (スペイン語: República del Ecuador)、通称エクアドルは、南アメリカ大陸北西部に位置する共和制国家。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本 土から西に1,000キロメートルほど離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipiélago de Colón)を領有する。首都はキトで、最大の都市はグアヤキルである。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する[3]。

エクアドル共和国(エクアドルきょうわこく、 (スペイン語: República del Ecuador)、通称エクアドルは、南アメリカ大陸北西部に位置する共和制国家。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本 土から西に1,000キロメートルほど離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipiélago de Colón)を領有する。首都はキトで、最大の都市はグアヤキルである。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する[3]。

正式名称はスペイン語: República del Ecuador。通称Ecuador [ekwaˈðor]。
公式の英語表記はRepublic of Ecuador。通称Ecuador /ˈɛkwədɔːr/。
日本語の表記はエクアドル共和国。通称エクアドル。
漢字表記は厄瓜多[要出典]。
国名はこの国を通る赤道(スペイン語: Ecuador terrestre)に由来する。スペイン帝国による植民地時代には現在のエクアドルの領域はペルー副王領の一部であり、独立戦争中にシモン・ボリーバル の采配によってコロンビア共和国(大コロンビア)に併合された後は「南部地区(Distrito del sur)」と呼ばれていた。1830年にコロンビア共和国から分離独立する際に、キト共和国と名乗ることは他の諸都市の反発を招くことが予想されたため、 キト直下を通る赤道から名前をとり、エクアドルという名前で諸地域の妥協がなされた。

エクアドルの歴史

ハマ・コアケの土偶

チョレーラの土偶。バルディヴィアに比べて大型で豊満である。頭の被り物は小さくやや一般的でない形式

バイーア文化の土偶。特徴的ないぼ状の頭飾りをつけていて、神官の座像と考えられている。

先コロンブス期
→「先コロンブス期」および「バルディヴィア文化(スペイン語版、英語版)」も参照
現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前1万年ごろの人類の生存が確認されており、その後、様々な古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半 ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。

エクアドルにおける人間の活動は、エル・インガやチョブシ洞穴の発掘により、およそ紀元前10000年頃には始まっていたと確認されている。

紀元前6000年からトウモロコシ、ヒョウタンの栽培が始まり、紀元前4000年頃から土器の製作が開始される。それ以後の時期区分は、紀元前4000年 頃から同300年頃までを形成期、紀元前300年頃から紀元700年頃までを地方発展期、紀元700年頃以降からスペインの征服によって植民地時代になる 16世紀前半までを統合期と区分している。

エクアドルの南海岸グァヤス地方に興ったバルディヴィア文化(スペイン語版、英語版)(紀元前4000年頃から同1500年頃)は、おおむね10cm弱で 呪符のように平たくのっぺりとした女性の土偶とTの字型、三角形、様式化された人面装飾、羽状ないしヘリンボーン(杉綾文様)のような文様を始めとする幾 何学的な刻線文、貼付文、爪形文など様々な文様を刻んだ土器で知られる。そういった文様と丸底の鉢が多いという特徴は、土器がヒョウタン容器を模して作ら れたことを示している。土器の文様のうち、一部のものが九州の縄文時代前期から中期の初頭の土器、例えば曽畑式などと酷似していることで知られる。バル ディヴィア遺跡を調査したエヴァンス夫妻やベティ・メガースが60年代に唱えた「太平洋横断伝播接触説」(Pacific Contact)古田武彦「倭人南米交流説」などがある[1]。実際に伝播があったかどうかについては、型式的な比較で全てが同じではあるとはいえないこ とと、器形や伝播経路などから考えて不可能であるとする反対意見も存在するが、この仮説は駐日エクアドル大使がエクアドルの土器と日本の土器の類似性に触 れるなどの影響を与えており[2]、土器の相対編年を重視するエヴァンス夫妻の研究は大貫良夫ら日本人研究者がエクアドルの歴史を研究するきっかけの一つ となった。また、遺構としては、茅葺様の住居跡や祭祀を行ったと思われる公共的な建造物が作られた。現在確認されている最大級の集落遺跡としては、サンタ エレナ半島南部の海岸から2km内陸に位置するレアル・アルトが挙げられる。レアル・アルトは、紀元前2800年から同2600年頃に著しく発展を遂げ、 その規模は300m - 400m四方にまで達した。集落は、祭祀用と考えられる建物二棟がある長方形の広場を囲むように住居が配置されていた。

生業としては、一般的に魚骨や多量の貝殻、カニの殻のほか鹿骨なども確認されるほか、トウモロコシ、ヒョウタンに加えて、タチナタマメ、カンナなどの栽培 が行われていたことが植物遺存体やプラント・オパール分析で判明している。また装身具のなかにはペルーでも用いられていた貴重品であるスポンディルス貝 (ウミギクガイ)で作られた首飾りや面などが見られ、遠方との交易が行われていたことも示していた。

バルディヴィア文化に続いて海岸地方では、マチャリーリャ文化が紀元前1500年頃から同1200年頃に興る。マチャリーリャ文化の時期に鐙型注口土器が 出現し、ペルーのチャビン文化に影響を与えたのか、それともマチャリーリャが起源なのか研究者の間で議論になっている。またマチャリーリャ文化の時期に初 めて40cmに達する大型で中空の土偶が出現した。いずれにしてもクピスニケ・スタイルの太い注口をもち、チャビン的な文様(チャビノイデ)が刻まれた土 器がエクアドルからも出土している。ひきつづく海岸地方の形成期後期(紀元前1200年頃 - 同200年頃)は、チョレーラ文化の時代になる。チョレーラ文化は、マチャリーリャ文化の伝統を引き継ぎ大型の中空土偶を発達させる。チョレーラ文化の土 偶は、前面が型をとって作られ、背面が手づくねで作られた。バルディヴィアの場合と異なり完形品で発見される。目立つのは赤色スリップで彩色され刻線で文 様が付けられ、大きな被り物をつけて目を閉じて「気をつけ」の姿勢をした直立の女性像である。墳墓の副葬品や祭祀に用いるために大切に安置されたものでは ないかと推察される。一方で高地では、バルディヴィア並行の前期ナリーオ文化、チョレーラ並行の後期ナリーオ文化のほかに、首都キトがあるキト台地に紀元 前1500年から同500年頃に位置づけられるコトコリャオ文化の集落が確認されている。住居跡は、方形の堀くぼめられて柱穴を伴い、一辺が4 - 5m、他辺が6 - 8mの長方形である。石材などを用いているわけではないので建物自体が残っているわけではない。鐙型注口土器、石製の鉢、臼、耳飾り、斧のほか骨角器が確 認されている。

地方発展期(紀元前300年から紀元700年頃)には、階層社会や祭祀センターなどが成立した。

中部海岸で、ネガティブ技法の土器と人間や動物を象ったた素朴であるが彩色の施された、もしくは彩色の無い頭にいぼ状の頭飾りをつけた土偶で知られるバ イーア文化、中空で写実的な型どりの土偶を作ったハマ・コアケ文化が知られる。ハマ・コアケの土偶は、鮮やかな彩色が施され、農具、笛、服、頭飾り、農作 物などの装飾が別々に作られ、あたかも着せ替え人形のように取り外しが可能になっている。神官や戦士を思わせる土偶が見られる。ハマ・コアケの大祭祀セン ターは、やや内陸のサン・イシドロにマウンド群が確認されている。国土の北端部の海岸には、ラ・トリータ文化で、型を使って人物や牙を生やした怪人など超 自然的存在を表現した土偶が作られた。ラ・トリータの大センターもラ・トリータ島に40基ものマウンド群が確認されている。また、ラ・トリータは黄金、 トゥンバガやプラチナを用いた仮面や装身具の金属加工に優れ、コロンビア南端のトゥマコ様式との関連が推察される。一方、高地ではネガティブ技法で幾何学 文を施した細長い甕や鉢で知られるトゥンカワン文化が栄えた。

紀元700年から16世紀半ばまでは統合期と呼ばれ、シエラ(高地)でパンサレオ文化、海岸地帯で、黒色に磨かれて頭に皿をつけた男性立像や「石の座席」 と呼ばれるうずくまった人物やネコ科動物がU字状の台を背負ったような石彫で知られるマンテーニョ文化が栄えた。「石の座席」は元々祭祀に用いられた建物 の内壁にそって並べられていたことが、マンテーニョ文化に属するアグア・ブランカ遺跡の調査で判明した。

統合期の社会については、サランゴと呼ばれる強力な首長を戴いた首長制社会が成立していたことがスペイン人の残した記録から明らかになっている。

インカ帝国時代

キトの皇帝アタワルパ

インガピルカ(スペイン語版、英語版)の遺跡。
このような諸文化は最終的に、15世紀半ばにクスコを拠点に急速に拡大していたタワンティン・スウユ(ケチュア語: Tawantin Suyu、インカ帝国)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキの遠征によって征服され、キトはクスコに次ぐ帝国第二の都市として栄えた。

ワマン・ポマによって描かれたトゥパック・インカ・ユパンキ(1615年)

クリストファー・コロンブス率いる船団のアメリカ大陸到達(1492年)以降、スペインによるアメリカ大陸の植民地化の脅威はインカ帝国に及んだ。皇帝ワ イナ・カパックが、スペイン人によってパナマからもたらされたヨーロッパの疫病で1527年に病死すると、キトで育った皇帝アタワルパは皇位継承権などを めぐってクスコのワスカルとインカ帝国内戦(1529年 - 1532年)を戦い勝利したが、疲弊した帝国にまもなく上陸するスペイン人との戦いを余儀なくされた。

スペイン植民地時代

1531年にスペイン出身のコンキスタドールの一群を率いてインカ帝国に上陸したフランシスコ・ピサロ(ca.1470-1541)は、優れた火器や馬を用いてインカ人との戦いを有利 に進め、1532年にアタワルパを捕虜にし、1533年にタワンティン・スウユを滅ぼした。

スペイン人による征服後、現在のエクアドルに相当する地域はペルー副王領に編入され、リマの統治を受けることになった。1563年にはキトにアウディエン シアが設置された。1717年にサンタフェ・デ・ボゴタを中心にヌエバ・グラナダ副王領が設立されると、エクアドルはこの副王領に組み込まれたが、 1722年には再びペルー副王領に移管された。

征服と植民地化による疫病や、ミタ制による酷使により、インディオ人口は植民地時代に大きく減少し、労働力を補填するためにアフリカから黒人奴隷が連行さ れた。その一方でスペイン系のクリオージョが社会の寡頭支配層となり、メスティーソ(混血者)や、故郷の土地を離れて流浪するインディオなどの境界的な階 層も出現するようになった。また、住人のカトリック化も進んだ。

独立戦争と保守支配
→詳細は「エクアドル独立戦争(英語版)」を参照
→「近代における世界の一体化 § ラテンアメリカ諸国の独立」も参照

ラテンアメリカ諸国の解放者シモン・ボリーバル。

ボリーバルの最も優秀な部下だったアントニオ・ホセ・デ・スクレ元帥。スクレはキトをこよなく愛した。

ガブリエル・ガルシア・モレノは保守政治家としてエクアドルの近代化と、インディオ共有地の保護などに努めた。
1789年に勃発したフランス革命に続くナポレオン戦争により、ヨーロッパ大陸ではフランス第一帝政が覇権を一時握った。1808年にフランス皇帝ナポレ オン1世が兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス 植民地は、この偽王への忠誠を拒否した。

1809年8月10日にキトの革命評議会により、イスパノアメリカ初の自治運動が勃発した。この自治運動はペルー副王フェルナンド・アバスカル(英語版) の差し向けた王党派軍により鎮圧されたものの、同様の運動がすぐにラパス、カラカス、ブエノスアイレス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタ など、大陸的な規模で勃発した。

1810年代からコロンビア共和国とリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)が主体となって南米大陸各地の解放が進むなかで、北のベネスエラか らシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレが、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州からホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫 ると、各都市は再び独立を宣言。1822年のピチンチャの戦い(英語版)でスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域 の解放が確定した。

こうして解放された現在のエクアドルに相当する地域はシモン・ボリーバルの采配により、「南部地区(Distrito del Sur)」としてコロンビアの一部に組み込まれたが、コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣言すると、南部地区も独立を画策し、1830 年5月13日にコロンビアからの独立を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレ元帥は暗殺され、同年8月10日にフアン・ホセ・フローレス (英語版)が初代大統領に就任した。ラテンアメリカ統合の夢に破れた解放者シモン・ボリーバルは、自らの行った政治的な行為が無為に終わったことを噛み締 め、痛恨の内に死去した。

独立後しばらくはヌエバ・グラナダ共和国との戦争や、エクアドル・ペルー領土紛争 (1857年 - 1860年)(スペイン語版、英語版)、保守派と自由派との間でのエクアドル内戦(グアヤキルの戦い(スペイン語版、英語版))など混乱が続いたが、 1861年にガブリエル・ガルシア・モレノが政権を掌握すると、モレノは以降15年にわたる独裁政治を行った。モレノ時代にはカトリック教会を軸にした保 守政治が進み、エクアドル共和国が「イエズスの聖心」に捧げられるなどの事件があったが、この時期に学校、軍隊、鉄道が整備された。また、インディオ共有 地の保護などがなされた。1875年にモレノは暗殺された。

自由主義革命

自由主義者 エロイ・アルファロ(英語版)
このころからエクアドルはカカオを中心としたプランテーション経済により、世界経済に従属的な立場で組み込まれていったが、コスタでのプランテーションの発達は自由主義を求めるグアヤキルの資本家層の権力の拡大をもたらした。

モレノの暗殺後、保守派と自由派による争いが続いたが、自由主義者のエロイ・アルファロ(英語版)が1895年に権力を掌握し、大統領に就任すると、以降 自由主義的な政治が行われ、国家の世俗化が進んだ。アルファロは1912年に暗殺されたが、1925年までこの自由主義体制は継続した。

軍政とポプリスモ
1925年にシエラの勢力がクーデターを起こすと、政治的な権力の重心がグアヤキルからキトに移動した。しかし政治の混乱は続き、さらに1929年に始 まった世界大恐慌によりエクアドル経済が大打撃を受けると、大衆がエクアドル政治に台頭してきた。1933年にポプリスモ政策に訴えたホセ・マリア・ベラ スコ・イバラが労働者からの圧倒的な支持を得て大統領に就任した。ベラスコ・イバラは1935年に失脚したが、その後40年間にわたり、エクアドル政治に 大きな足跡を残すことになる。

1941年にペルー軍がアマゾン地域を侵略し、エクアドル・ペルー戦争が勃発した。エクアドル軍はこの戦役に敗れ、アマゾン地域の20万 - 25万平方キロメートルの領土をリオデジャネイロ議定書で失うことになった。この戦争はこの後50年間におよびエクアドル・ペルーの両国関係を規定し、さ らにはエクアドル人に国民的なアマゾンへの郷愁をもたらすことになった。

第二次世界大戦後、バナナブームにより一時的に経済的な発展がみられたものの、1960年ごろから政治的に不安定な情勢が続き、ベラスコ・イバラや軍人が 大統領になる時期が続いた。またこのころから、失われたアマゾンへの郷愁により、エクアドルは「アマゾン国家」であるとする言説がみられるようになった。

革新的軍事政権
→詳細は「コンドル作戦」を参照

ロドリゲス・ララ政権下では石油会社の国有化や農地改革が行われたが、クーデターで打倒された。
この状況を打破するために、ギジェルモ・ロドリゲス・ララ(スペイン語版、英語版)将軍が決起し、軍事評議会による革命的国民主義政権が樹立された。ロド リゲス将軍は外国資本、特に開発が進められていたアマゾン地域の石油の国有化を通してエクアドル経済の自立的発展や、農地改革を行い、キューバや東側諸国 との友好関係を築き、1973年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟するなど自主外交が行われた。こうした政策により自らの政治的な立場が危うくなる寡 頭支配層と結んだ軍保守派が1976年にクーデターを起こすと、ロドリゲス将軍は失脚した。

新たに政権を握ったアルフレド・ポベダ・ブルバーノ(スペイン語版、英語版)海軍中将は保守化し、外資導入が再び進められた。また、1978年に新憲法草案が国民投票によって承認された。

民政移管以降 (1990年代)

民政移管に伴いロルドス・アギレーラ政権が成立したが、航空事故によって中断した。
1979年にキリスト教民主主義の人民勢力結集党からハイメ・ロルドス・アギレーラ(スペイン語版)が当選して軍事政権から民政移管したが、エクアドルの 民主政治は前途多難だった。1981年、ペルーとの紛争(en:Paquisha War)の最中にアギレーラは航空事故で死去し、副大統領のオズワルド・フルタド・ラレア(スペイン語版)が昇格。1984年の大統領選挙で当選したレオ ン・フェブレス・コルデーロ(英語版)は親米政権を推進したが、1987年の大地震によって多数の犠牲者を出したばかりか石油パイプラインも破壊されて経 済的に苦境に陥った。

1992年にシスト・デュラン・バジェン(スペイン語版)が大統領に就任した。バジェンは1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)をめぐってペルーの アルベルト・フジモリ政権とセネパ紛争(英語版)を行ったが、敗北した。また、1993年にはロドリゲス将軍の時代に加盟した石油輸出国機構(OPEC) から脱退した。

1996年にはレバノン系のアブダラ・ブカラム(スペイン語版)が大統領に就任した。しかし、エクアドルにおける初のアラブ系大統領は奇行を繰り返したた めに失脚し、1998年に同じくレバノン系のハミル・マワ(スペイン語版)が大統領に就任した。マワは10月26日にブラジリア議定書でアマゾン地域を放 棄することを認め、1942年以来続いたペルーとのアマゾン地域をめぐる国境紛争はエクアドルの敗北という形で幕を閉じた。

2000年代

銀行危機が原因となってハミル・マワ大統領は退陣に追い込まれた
1998 - 1999年、銀行危機(Ecuador banking crisis)が発生した。財政再建策をめぐり国際通貨基金(IMF)との間で融資交渉が進んでいなかったこともあり、エクアドルは外貨資金を調達できな いまま、1999年9月にブレイディ債がデフォルト(債務不履行)となり、さらにこの後にユーロ債や他の種類のブレイディ債もデフォルトした[4]。債券 を保有していた外国の機関投資家で、貸し倒れの特に大きい8機関が政府に対する顧問団を設立し、外貨準備と再生計画について説明を受けた[4]。2000 年1月5日、マワは非常事態宣言を行い、1月9日にそれまでの通貨だったスクレからアメリカ合衆国ドルに通貨を変更するドル化政策発表した。7月に政府は デフォルトした債権を単一の国際債に交換するという提案を公表した。同年9月にマワは失脚し、グスタボ・ノボア(英語版)が大統領に就任した。政治は安定 せず、2003年には軍と先住民組織の支持により、ルシオ・グティエレス(英語版)が大統領に就任したが、2005年に失脚した。

2006年11月の大統領選挙で、ポプリスモ的な政策に訴えたラファエル・コレアが国民から圧倒的な支持を得て勝利し、2007年に大統領に就任した。コ レアは反米を旗印に自主外交を進め、ベネスエラのチャベス政権をはじめとする世界の反米政権との友好的関係の構築や、石油出国機構(OPEC)への再加盟 などに尽力した。2008年3月3日、コロンビアのウリベ親米政権が3月1日にコロンビア革命軍(FARC、反政府武装組織)征討作戦をエクアドル領内で 行ったことに反発し、コロンビアに対して両国の外交関係を断絶することを通告し、公式発表した(アンデス危機)。

2008年9月28日には、大統領の連続再選容認や、経済格差是正を柱とした憲法改正案が賛成多数で承認、公布された。2009年4月26日には大統領選 挙および議会選挙を含む総選挙が行われ、コレア大統領が得票率50パーセント以上を得て圧勝し、再選された。新憲法は、社会的な変革や両性の平等、複数民 族制などを取り入れている。また、アメリカ合衆国(米国)の同盟国でなく、自主的な立場を明確にしてワシントン・コンセンサスや新自由主義政策と決別する ことにとどまらず、南米の統合で主導的な役割を果たし、エクアドルのキトに南米諸国連合の本部を建設した。

2010年代

レニン・モレーノ大統領は左派からの支持で当選したが、一転して親米・新自由主義的政策を推進した。
2017年2月19日(1回目投票)、同年4月2日(2回目投票)の大統領選挙で当選したレニン・モレーノが、同年5月25日に大統領に就任した。コレア 政権の副大統領を務め、コレア大統領から後継者として指名され、選挙時においても自らがコレア政権の後継者であるとして当選していたことから、反米左翼と 反新自由主義を掲げたコレア路線を継続するとみられていた。しかしながら、モレーノ大統領が就任するなりエクアドル政府はそれまでの反米左翼色を親米右翼 政策に180度転換し、コレア政権以前のワシントンコンセンサス重視の親グローバリズム・親米・反共・緊縮財政・新自由主義政策に回帰した。2018年3 月には親米自由貿易の経済圏である太平洋同盟(加盟国=メキシコ、コロンビア、ペルー、チリ)に加盟した。一方、反米左翼政権のベネズエラとの関係は急速 に悪化しており、2018年8月にはベネズエラ主導の米州ボリバル同盟(ALBA)から脱退した[5]。2019年3月には南米諸国連合からも離脱し [6]、チリのセバスティアン・ピニェラ大統領の主導で南米諸国連合に対抗する新たな地域連合として結成されたラテンアメリカの進歩と発展のためのフォー ラム(英語版)(Prosur)に他の親米的な南米諸国とともに加盟した[7]。

2018年9月には経済破綻状態のベネズエラから近隣の南米諸国に流出する難民対策の国際会議を提唱。ブラジルやコロンビア、アルゼンチンなど南米諸国をキトに招待して国際会議を開き、「キト宣言」を発した[8]。

2018年10月18日にはベネズエラ大使を「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定して国外追放に処した[9]。

2019年2月7日にはベネズエラ暫定大統領就任を宣言した反マドゥロ派のベネズエラ国会議長フアン・グアイドをベネズエラ大統領として承認した[10]。

2020年代
2020年に入って世界中に拡大した2019新型コロナウイルスの感染はエクアドルにも波及。港湾都市のグアヤキルでは、感染を恐れて路上に多数の遺体が 放置される出来事もあった[11]。モレノ大統領は外出禁止令を敷く一方、感染拡大に対処する資金を捻出するため、大統領や閣僚、国会議員らの給与を5割 削減することを明らかにした[12]。

2020年4月末の統計では、2万3000人近くが新型ウイルスに感染して約600人が死亡しているとされるが、グアヤス州では4月上旬の死亡者数が月平均の3倍超となっており、上振れする可能性がある[13]。

2021年2月、任期満了に伴う大統領選挙が行われたが、いずれの候補者も過半数を得ることができず、同年4月11日に決選投票が行われることとなった。 1位は約32%の票を集めた反米左派のコレア前大統領が推薦するアンドレス・アラウス元知識・人的能力調整相であったが、2位は先住民の市民運動家ヤク・ ペレスと元銀行頭取のギジェルモ・ラソが横並びとなる[14]が、ラソが2位となり、アラウスとラソとの決選投票の結果、ラソが52.4%を獲得し勝利し た[15]。ラソは11人きょうだいの末っ子で、証券取引所などで15歳ごろから働き始め、後に銀行やコカ・コーラ社現地法人の経営、グアヤス州知事、エ クアドル政府経済相を務めた。政治姿勢や政策としては、左右の融和、自由主義経済と雇用による貧困対策を掲げている[15]。

2023年、ダニエル・ノボアが大統領選挙で当選。犯罪増加への対策を公約にしていたが、2024年1月7日、刑務所に服役していた犯罪組織のリーダーが 脱獄。全土で非常事態を宣言が出されたが、国内では複数の爆発、警官の拉致、刑務所内の騒乱、テレビ局の占拠が相次いで発生。ノボア大統領は国内が武力衝 突状態にあると宣言し、治安部隊に対して複数の犯罪組織の無効化を指示した[16]。

政治
→詳細は「エクアドルの政治(英語版)」を参照
大統領を元首とする共和制国家である。行政権は大統領に属し、大統領の任期は4年で、以前は再選は禁止されていたが2008年の憲法改正で再選が可能となった。現行憲法は2008年憲法である。

立法権は一院制の国民議会に属し、任期は4年、定数は137議席である[17]。

司法権は最高裁判所に属する。

軍事
→詳細は「エクアドル軍」を参照

エクアドル陸軍のピューマヘリコプター
徴兵制が敷かれており、エクアドル軍は兵員約5万人を有している。エクアドル軍はエクアドル陸軍、エクアドル海軍、エクアドル空軍の三軍種からなる。

過去にペルーとの紛争でアマゾン流域の領土を併合されたことや、強権的な弾圧を行った軍事政権が少ないこと、主要な政治改革が主にクーデターによって政権を握った軍部の革新派将校によって進められたことから、国民の軍への信頼は強い[18]。

コロンビアとの国境付近はコロンビア革命軍(FARC)の活動地域であり、危険である。また、エクアドル政府は2005年のグティエレス政権時代から FARCに庇護を与えていたが、このことが2008年のコレア政権下で再び発覚し、コロンビアとの外交問題になった。[要出典]

太平洋岸の港湾都市マンタにはアメリカ空軍の基地(マンタ空軍基地)が存在し、コロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていたが、2009年9月に賃貸期限が切れ、政府も更新を認めなかったことから撤退した。



国際関係
→詳細は「エクアドルの国際関係(英語版)」を参照
1942年のペルーとの戦争でアマゾン流域の広大な領土を併合されて以来、エクアドル・ペルー間には恒常的な緊張状態が続いていたが、1998年に和平合意が結ばれてからは、エクアドルがアマゾンの領有権主張を諦める形で両国の友好関係が再開した。

アメリカ合衆国との関係も大きく、2004年には二国間自由貿易協定(FTA)の成立を目指していたが、これは2006年のコレア政権の成立によって阻止 された。また、1999年のパナマ運河返還に伴ってパナマの米軍基地が太平洋岸の港湾都市マンタに移動し、マンタ空軍基地から出撃するアメリカ空軍がコロ ンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていた。現在も多くのエクアドル人がアメリカ合衆国に出稼ぎに行っている。

欧州連合(EU)との関係も重要であり、スペインやイタリアに多くのエクアドル人が出稼ぎに出ている。

2008年のデフォルトから接近した中華人民共和国(中国)はコレア政権時代にエクアドル最大の債権国となり、中国からの融資でエクアドルの財政支出の6 割は賄われるようになり[19][20]、エクアドルの原油は9割が中国に輸出された[21]。また、中国から武器の購入も進め[22][23]、中国の 援助でエクアドル初の人工衛星「NEE-01 ペガソ(英語版)」を打ち上げたほか、エクアドル最大のコカ・コド・シンクレル水力発電所[24]などを建設。さらに中国の協力で大規模な監視システムで あるECU911を構築してエクアドルは監視社会となった[25][26][27][28]。

エクアドルは2017年にモレーノが大統領に就任してから親米右翼路線に転換、反米左翼政権のベネズエラとの関係が極度に悪化している。

2022年には日本など太平洋諸国によるTPPに加盟を申請[29]。2023年5月10日には中国との自由貿易協定(FTA)に署名した[30]。

→「日本とエクアドルの関係」も参照
2023年のメキシコ大使館突入事件
2023年12月、2017年に公共工事に絡む汚職事件で有罪判決を受け、服役後に仮釈放を受けていた元副大統領のホルヘ・グラスがメキシコへの政治亡命 を求めて、首都キトにあるメキシコ大使館に駆け込み、保護されていた。2024年4月5日、武装した現地警察特殊部隊が同大使館に突入してグラスを拘束し 裁判所に連行した。メキシコ側は「エクアドル側による『在外公館における不可侵』を破る行為で、外交関係に関するウィーン条約に違反し主権を侵害してい る」として強く反発し、直ちにエクアドルとの断交を実施した。これに対しエクアドル側は、自国駐在のメキシコ大使をペルソナ・ノングラータに指定する報復 措置を実施し、両国間の関係が急速に悪化することとなった[31]。11日、メキシコ政府は国際法違反だとして国際司法裁判所に提訴した[32]。

当時のブラジル、チリ、コロンビア左派政権もメキシコに同調して6日にエクアドル政府を非難し、ニカラグアは断交を発表した[33]。

地方行政区分
→詳細は「エクアドルの行政区画」を参照

エクアドルの県

エクアドルの都市位置
22の県(provincia、州と訳されることもある)に分かれる。地方行政は中央集権体制がとられており、各県知事は大統領が任命する。":" の右側は県都。

オリエンテ(アマゾン地域)
モロナ・サンティアゴ県(Morona-Santiago):マカス
ナポ県(Napo):テナ
オレリャナ県(Orellana):プエルト・フランシスコ・デ・オレリャナ
パスタサ県(Pastaza):プージョ
スクンビオス県(Sucumbios):ヌエバ・ロハ
サモラ・チンチペ県(Zamora-Chinchipe):サモラ
シエラ(アンデス地域)
アスアイ県(Azuay):クエンカ
ボリーバル県(Bolivar):グアランダ
カニャール県(Cañar):アソゲス
カルチ県(Carchi):トゥルカン
コトパクシ県(Cotopaxi):ラタクンガ
チンボラソ県(Chimborazo):リオバンバ
インバブーラ県(Imbabura):イバラ
ロハ県(Loja):ロハ
ピチンチャ県(Pichincha):キト(首都)
サント・ドミンゴ・デ・ロス・ツァチラス県(Santo Domingo de los Tsáchilas):サント・ドミンゴ・デ・ロス・コロラドス
トゥングラワ県(Tungurahua):アンバト
コスタ(太平洋岸地域)
エル・オロ県(El Oro):マチャラ
エスメラルダス県(Esmeraldas):エスメラルダス
グアヤス県(Guayas):グアヤキル
ロス・リオス県(Los Rios):ババオヨ
マナビ県(Manabi):ポルトビエホ
サンタ・エレーナ県(Santa Elena):サンタ・エレーナ
島嶼
ガラパゴス県(Galapagos):プエルト・バケリソ・モレノ
1. アスアイ
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19. ピチャンチャ()
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22.
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地理

エクアドルの地形図
→詳細は「エクアドルの地理(英語版)」を参照
エクアドルは赤道直下にあり、北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000キロメートルほど離れた太平洋上にガラパゴス諸島を領有する。

本土は標高によって三地域に分かれる。中央のアンデス山脈が縦断している地域をシエラ(La Sierra)、太平洋岸の亜熱帯低地をコスタ(La Costa)、東部のアマゾン川上流熱帯雨林が広がる地域をオリエンテ(El Oriente)と呼ぶ。



チンボラソ山
国内中央のシエラをアンデス山脈が南北に貫き、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(英語版)、東部のオリエンタル山脈(英語版)、および両山脈の間 に位置する10の主要盆地よりなる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のチンボラソ山(6,267メートル)である。いくつかの火山が現在も活動している。

気候
基本的に赤道直下の熱帯だが、シエラは標高が高く、またコスタも寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響により、過ごしやすい気候になっている。


経済
→詳細は「エクアドルの経済(英語版)」を参照

エクアドルの首都キト
2021年の名目GDP(国内総生産)は1,061億6,587万ドルで、これは2021年世界GDPランキングの64位である[34]。2021年の GDP成長率は、4.2%と大幅に上昇した。これは前年のコロナ禍と原油価格下落の影響で-7.8%の成長率となったことに影響されており、異例な上昇率 となった[35]。アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国である。2000年からエクアドルは自国の通貨をスクレからアメリカ合衆国ドルに切り 替えた。

ドル化政策
1999年のブラジル通貨危機の影響により、翌年2000年米ドルを法定通貨に採用した。中南米のいくつかの国ではこのような「ドル化」が定着している。 エクアドルの場合、1999年に通貨スクレの信認が失われ為替相場が急落したため、2000年1月に1ドル=25,000スクレの固定相場制を導入し、同 年9月には通貨スクレを放棄し米ドルを法定通貨とした。これは非常に短期間のうちに緊急対応的に実施された。ドル化を実施して以降、エクアドルのインフレ 率は急速に低下し経済は安定的に推移している。しかし、その代償として自国通貨を放棄したことで独自の金融政策が実施できなくなり、エクアドル経済は米当 局の都合で決まる金融政策に左右されることとなった。また、当時のエクアドルのコレア政権は、政治的に反米左翼だったにもかかわらず、自国通貨を放棄して でも物価と経済の安定を優先した非常に危機的状況だったことがわかる[36]。なお、その後2017年に就任したモレノ大統領、2021年就任のラソ大統 領はアメリカとの関係を重視しており、特にラソ大統領はIMFなどの国際金融機関との協調路線を継続し、ドル化経済を維持していくとしているとしている [37]。

農業
エクアドルは農業国だが、生産が輸出商品作物の栽培に偏っていることや農地の所有制度に問題が残ることなどから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。

農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる米やトウモロコシ、肥沃な海岸平野ではカカオ、コー ヒー、サトウキビ、バナナなどの商品作物を栽培する。このため、輸出に占める農産物の割合が5割を超えているにもかかわらず、食糧を輸入している。大土地 所有制度の弊害は大きく、人口のわずか1パーセントを占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民や一種の農奴として働く農民が少なくな い。

しかし、2007年には革新政権が誕生し、続く2008年9月に国民投票で承認された新憲法は、食料主権を確立するために大土地所有制を禁止した。それを 受けて、2009年7月に2年以上未使用の土地は政府が接収できるとする政令が発効した。それにより政府は、企業や大土地利用者が所有している未使用地を 小規模農家に配分し始めた。2009年12月20日、政府は北西部地域に住む農家約1850世帯に対して、合計1万2,000ヘクタールの未使用地の所有 権を譲り渡した。この土地は大手銀行が所有していたが、1999年に銀行が倒産したあとは放置されていたものである[38]。

主食となる作物は、米(138万トン、以下2005年)、トウモロコシ(75万トン)、ばれいしょ(42万トン)、キャッサバ(12万トン)が主力。商品 作物では、世界第4位のバナナ(588万トン、世界シェア8.1パーセント)、同7位のカカオ(14万トン、3.6パーセント)、コーヒー(10万トン、 1.3パーセント)。世界シェアは低いもののサトウキビの生産量は566万トンに達し、単一の作物としてはバナナに次ぐ。畜産業は馬に集中している。

また、エクアドル沖は好漁場であり、コスタではエビ、マングローブガニが水揚げ、ガラパゴス沖ではマグロなどが漁獲されている。

鉱業
→詳細は「エクアドルの鉱業(英語版)」を参照

色と面積で示したエクアドルの輸出品目(2009年)。原油が大きな割合を占めている。
鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に石油は1920年代に開発されて 以来エクアドルの主産業となり、2003年時点で輸出額の39.3パーセントを占める最大品目である。東部のオレリャナ州の油田が有力。エクアドル政府は 石油が貴重な外貨獲得源であると考えており、火力発電を規制し、地形を生かした水力発電に投資している。2011年では、水力発電が発電量の58パーセン トを占めており、火力発電は34パーセントでしかない[39]。2016年には水力発電の比率を93.5パーセントにすることを目標としている[36]。

エクアドルの油田の問題点は、主要な油田がアンデス山脈の東側に位置しながら、輸出のためには山脈の西側の港湾まで輸送しなければならないことである。輸送にはパイプラインを用いているが、地震国でもあるため、いったん損傷が起こると輸出が停止してしまう。

有機鉱物資源の品目では、石油(2,046万トン、2002年)に偏っており、天然ガス(6.8千兆ジュール)が次ぐ。石炭は採掘されていない。金属鉱物 資源の種類は多く、亜鉛(100トン)、金(11トン)、銀(2トン)、銅(100トン)、鉛(200トン)のほか、錫やビスマスも確認されている。ただ し、鉱業として成立しているとは言いがたい。その他の鉱物資源としては塩(9万トン)がある。

貿易
2021年時点で、エクアドルの主要輸出相手国は上位から、米国(24.0%)、中国(15.3%)、パナマ(14.9%)である。主要輸出品目は、上位 に原油(27.3%)で、次にエビ(19.9%)、バナナ(13.1%)といった農林水産物となっている。以前は輸出の半分以上が原油であったが、近年非 石油部門を強化し、EU以外の欧州、アジア・オセアニアなど輸出先を増やしている。2015年、原油価格低下により国際収支が悪化し、政府は次のような一 連の保護主義的措置を導入した。自動車の輸入総量規制の強化、588 品目について関税率引き上げ、全輸入品に対し 5~45%の追加関税を課すなど[35]。なお、エクアドルの2021年の石油産出量は、2,535万トンで、世界第29位となっている[34]。

対日貿易
2021年のエクアドルへの日本の輸出は約478億円、エクアドルからの輸入は約1,392億円で日本の貿易赤字となっている。主な輸出品目は、熱延銅板 (22.2%)などの工業品、乗用車(11.6%)。輸入品目は上位から石油および歴青油(原油)(78.8%)、バナナ(8.6%)、冷凍野菜 (5.4%)などだ。また、日系企業の進出状況は2020年10月時点で19社、在留邦人数は301人と少ない[35]。

観光・移住
→詳細は「エクアドルの観光(英語版)」を参照
キト、クエンカの歴史的な町並みや、アマゾンでのエコツアーが多くの観光客を惹きつけているが、エクアドルの観光地として特筆されるのはやはり、多様な生 態系で知られるガラパゴス諸島である。また、「リタイア後に移住したい国ランキング」世界1位であり、理由として過ごしやすい気候、高度で安い医療費、物 価の安さが挙げられ、リタイヤメントビザでの北米からの移住者が約4,000人いる[40]。

交通
→詳細は「エクアドルの交通(英語版)」を参照
→「エクアドルの鉄道」および「エクアドルの空港の一覧」も参照
首都キトにメトロ、バスと鉄道が通る。同国最大の都市であるグアヤキルにもバスがある。ドゥランに鉄道駅がある。



国民

伝統的な衣装に身を包んだメスティーソの女性
→詳細は「エクアドル人」を参照
エクアドルは非常に多様性に富んだ国である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67パーセントを占めるメスティーソであり、2番目に 多いのは22パーセントを占めるインディヘナとなり、白人が12パーセント、ムラートやサンボを含んだアフリカ系エクアドル人が8パーセントを占める。ま た、特にイタリア、スペイン、アメリカ合衆国、カナダ、日本(在日エクアドル人)には出稼ぎエクアドル人のコミュニティがあり、2007年の時点で約 250万人のエクアドル人が海外で暮らしていると推測されている。国民の多くはコスタやシエラに住み、オリエンテには国民の3 - 5パーセントほどしか居住していない。エクアドルの移民の出身地としてはスペイン、フランス、ドイツ、レバノン(レバノン系エクアドル人)、イタリアなど が挙げられる。

人口
→詳細は「エクアドルの人口統計(英語版)」を参照
1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人になった。

言語
→詳細は「エクアドルの言語(英語版)」を参照
公用語はスペイン語のみであるが、インディヘナによりケチュア語(キチュア語(英語版))、シュアール語(スペイン語版、英語版)が話され、特にケチュア 語は「統一ケチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている

宗教
→詳細は「エクアドルの宗教(英語版)」を参照
カトリック教徒が国民の80パーセントであるが、近年、先住民社会を中心にプロテスタントの数が増加しつつある。ほかにはユダヤ教やイスラーム教を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人にはセファルディムが多い。

カトリックの影響が根強く存在し、エクアドルでは妊娠中絶が強く反対されている。現状では、母親の命に重篤な危険があるときか、精神障害のある女性がレイ プされたことによる妊娠しか中絶が認められていない。2019年9月には、エクアドルの首都キトにある国会前で、レイプ被害者や近親相姦に対する中絶規制 を緩和する法改正案が否決されたことに対し、デモが起こっている[41]。

教育

エクアドル中央大学(英語版)
→詳細は「エクアドルの教育」を参照
5歳から14歳までを対象に、1年間の就学前教育、6年間の初等教育、3年間の前期中等教育からなる10年間の義務教育制度が敷かれる。義務教育が終わると、3年間の後期中等教育(高校)があり、高校を卒業すると高等教育(大学)への道が開ける。

エクアドルの教育水準は決して高いとはいえない。その理由としては、就学率の低さと義務教育期間における留年率と退学率の高さが挙げられる。2001年の センサスによれば、15歳以上の人口の識字率は91パーセント(男性92.3パーセント、女性89.7パーセント)である[42]。

主な高等教育機関としてはエクアドル中央大学(英語版)(1826年創設)、グアヤキル大学(1867年創設)、クエンカ大学(1868年創設)などが挙げられる。

1980年代以降、先住民が教育文化省内に「異文化間二言語教育局」を設置し、スペイン語と先住民言語(おもにケチュア語、シュアール語)による二言語教育が実施されており、スペイン語と先住民言語の双方を習得した先住民子弟の教育に力が注がれている。



治安
→詳細は「エクアドルにおける犯罪(英語版)」を参照
殺人発生率は世界で18位にランクインするほど治安が悪かったが、徐々に改善されていき、2017年は57位まで下がった。南米の中ではチリ、アルゼンチンに次いで3番目に発生率が低く、南米の中では比較的治安が安定していた[43]。

しかし、2020年代に入ってから治安が急速に悪化し、2022年には人口10万人あたりに殺害された人はおよそ26人と2020年の3倍以上になった。これはメキシコやブラジルを上回る数値で、2024年中にはベネズエラと並ぶ中南米最悪のレベルになるとみられている。

背景には、麻薬取引が絡む犯罪組織が急速に勢力を広げ、豊富な資金力を持つメキシコやコロンビアなどの麻薬密売組織が、地元の組織と結託し、エクアドルの 軍や警察を次々に買収して各地の刑務所に武器を運び込み、麻薬取り引きの拠点としていることがある。これまで比較的治安がよく、国境や港湾の警備に力を入 れず、犯罪組織につけいる隙を与えたことや、2016年に隣国コロンビアで政府と左翼ゲリラのコロンビア革命軍(FARC)が和平合意に達し、これに反発 する一部の戦闘員がエクアドルに流れ、麻薬取り引きに関わるようになったとの指摘もある。犯罪組織は各地の商業施設や公的機関、さらには病院や学校に対し ても「みかじめ料」を払うよう要求し、従わない相手には車に爆発物を仕掛けるなどの凶悪行為も起こしている。

2023年に入ってから、現職の市長など要人が相次いで殺害されたほか、8月には大統領選挙に立候補したフェルナンド・ビジャビセンシオが、首都キトで 行った選挙集会の直後、武装グループから銃撃され、殺害された。ビジャビセンシオはジャーナリストとして長年、政府の汚職や組織犯罪を追及してきた。さら に実行犯のコロンビア国籍の男6人が、本格的な取り調べが始まる前に刑務所内で死亡。地元メディアなどは、口封じのため何者かによって刑務所内で「絞首 刑」に処せられたと伝えた[44]。

事件・事故
2013年12月28日、最大都市グアヤキルで、新婚旅行で訪れていた邦人夫婦が銃撃され、30歳の男性が死亡する強盗殺人事件が起きた。市内のレストラ ンからタクシーでホテルに帰る際に、8人組に襲われたとされる。南米では「特急誘拐」(短時間誘拐)と呼ばれる強盗が多発していた。2015年11月25 日、夫を殺害したとして強盗殺人罪に問われた1人の男に裁判所から有罪を言い渡された。量刑が後日で、求刑35年に対し、検察は禁固刑16年〜30年とみ たてた。男は控訴するとされた[45][46]。
2024年1月、悪名高い麻薬犯罪組織「ロス・チョネロス」を率いるリーダーが脱獄。のちにエクアドルの治安は急速に悪化し、大統領が非常事態宣言を出した[47]。
2024年1月9日、最大都市グアヤキルで、生放送中のテレビ局TCが、銃を持った覆面の武装集団に一時占拠された。テレビ局のスタッフ1名が足をうたれ、別の1名が腕を骨折させられたが、警察により制圧され13人が逮捕され、死亡者はでなかった[48][49]。
2024年1月17日、テレビ局襲撃事件の捜査を率いていた検事が暗殺される[50]。

文化
→詳細は「エクアドルの文化(英語版)」を参照
食文化
→詳細は「エクアドル料理(英語版、スペイン語版)」を参照

エクアドルのセビッチェ

エンセボラード(英語版)
エクアドルの国民食たる料理であり、国内全土で食されている。
地形の多様性に伴い、食文化も地域によって異なる。さらに、先住民の食文化と中華料理やスペイン料理、イタリア料理、フランス料理、ファストフードなどの 世界各国からの移民や黒人の食文化が融合し、エクアドルの食文化は非常に地方色豊かとなっている。ただし、エクアドルはケチュア系の人々が多く暮らす国で はあるが、ペルーやボリビアとは違ってエクアドルではコカ栽培は非合法であるため、コカ茶は飲めない。

コスタでは主に米、バナナ、ユカイモ、魚、エビ、貝類などを主食としている。中でも有名なのがセビッチェといわれる、冷たいエビや貝などのスープであり、 ペルーのそれとは名前が同じだけで味は異なる[51]。日常的なものの一つにはセコ・デ・ポロ(スペイン語版、英語版)と呼ばれる、鶏肉をコメとアボカド のスライスとともに煮込んだ料理がある。その他にもアロス・コン・ポジョやアロス・コン・マリネーロなど、周辺国と似た料理が食べられている。

シエラでは芋やトウモロコシを主食とし、牛、豚などを飼ったり、ミルクを売ったり食べたりして生活している。海産物はめったに手に入らない。クイと呼ばれ る天竺鼠の一種を食べる習慣がある。シエラの料理で代表的なものは豚肉のフリターダ(スペイン語版、英語版)や羊肉のセコ・デ・チーボ(スペイン語版、英 語版)、スープのロクロなどの名が挙げられる。

オリエンテにもユカイモを軸にした独自の食文化が存在する。乾燥したトウモロコシを茹でて塩で炒め、さらに鶏卵・牛乳・ネギを加えて炒めた「モテ・ピー ジョ」、トウモロコシを寒冷地で干して豚のラードで炒る「トースタッド」、粗挽きトウモロコシを皮に包み蒸した「ウミータス」という料理がある。

飲料には、代表的なものとして紫トウモロコシ(英語版)を材料とした「コラーダ・モラーダ(英語版)」と呼ばれる濃厚な粘り気が特徴のドリンクがある。

→「エクアドルの料理と食品の一覧(英語版)」も参照
文学
→詳細は「エクアドル文学(スペイン語版)」および「ラテンアメリカ文学」を参照
エクアドルの文学は先住民の口承文学に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。独立前後の作家としては、エウヘニオ・エスペホ、ホセ・ホアキン・オルメド、フアン・モンタルボなどが有名である。

エクアドルにおける小説はミゲル・リオ・フリオの『解放された女』(1863年)によって始まった。ロマン主義の時代にはインディオをテーマにした『クマ ンダー』(1879年)のフアン・レオン・メラの名が特に挙げられる。エクアドルの近代小説は、シエラからコスタのプランテーションに向かう人々を描いた ルイス・マルティネスの『海岸へ』(1904年)が出発点になった。フェルナンド・チャベスの『銀と青銅』(1927年)によって、エクアドルでもイン ディヘニスモ文学が始まった。のちに国際的にもっともよく知られたエクアドルの小説となった[52]ホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』(1934年)では、 土地を追われ、政府軍によって殺戮される悲惨さの極致としてインディオが描かれた。イカサとは対照的に、ウンベルト・マタが『塩』(1937年)で描いた インディオは、政府軍に対しての抵抗は失敗するものの、イカサのインディオ像には欠けていた人間の尊厳を持ち合わせていた。

キューバ革命後のラテンアメリカでは魔術的リアリズムが影響力を持ったが、エクアドルもその例外ではなかった。1970年代以降の現代小説においては、 『マルクスと裸の女の間に』(1976)でフリオ・コルタサルに勝るとまでの反響を得た[53]ホルヘ・エンリケ・アドウムや、ベラスコ・マッケンジー、 アリシア・ヤネス・コシーオ、『鷲はなぜ飛び去ってしまったのか』(1979年)でアメリカ留学帰りのインディオエリート知識人のアイデンティティの葛藤 を描いたグスタボ・アルフレド・ハコメ、『塵と灰』(1979年)でピカレスクを義賊として描いたエリエセル・カルデナスなどが有名である。

音楽
→詳細は「エクアドルの音楽(英語版)」を参照
エクアドルの音楽は、シエラの先住民系音楽、メスティーソ音楽、アフリカ系音楽に三大別される。また、米国ニューヨーク生まれのサルサや、コロンビア生まれのクンビア、バジェナート、ベネズエラ経由でもたらされたメレンゲなども広く愛好されている。

世界遺産
→詳細は「エクアドルの世界遺産」を参照
エクアドル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。

総合
新木秀和編著『エクアドルを知るための60章』明石書店、東京〈エリア・スタディーズ〉、2006, 2012年
歴史
エドゥアルド・ガレアーノ 著、大久保光夫 訳『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』新評論、東京、1986年9月。
中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『ラテン・アメリカ現代史III』山川出版社、東京〈世界現代史34〉、1985年1月。ISBN 4-634-42280-8。
増田義郎 編『ラテンアメリカ史II』山川出版社、東京〈新版世界各国史26〉、2000年7月。ISBN 4-634-41560-7。
地理
下中彌三郎 編『ラテンアメリカ』平凡社、東京〈世界文化地理体系24〉、1954年。
P.E.ジェームズ 著、山本正三、菅野峰明 訳『ラテンアメリカII』二宮書店、1979年。
野沢敬 編『ラテンアメリカ』朝日新聞社、東京〈朝日百科世界の地理12〉、1986年。ISBN 4-02-380006-6。
福井英一郎 編『ラテンアメリカII』朝倉書店、東京〈世界地理15〉、1978年。

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文 献

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CC

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