視覚中心主義
ocularcentrism, 眼球中心主義
☆西洋文化において、視覚を他の感覚より優位に置く知覚的・認識論的偏りがある。例えば、話し言葉より書き言葉が好まれる傾向(この場合、音声中心主義と は逆の傾向となる)が挙げられる。プラトンもアリストテレスも視覚を最優先し、それを理性と結びつけた。我々は「百聞は一見に如かず」「自分の目で確かめ ろ」「自分の目で見てから信じる」と言う。理解した時は「なるほど」と言い、意見が一致した時は「見解が一致する」と言う。我々は状況を「心の目で」想像 する。「言わんことを分かるか?」マクルーハンら評論家は、識字能力と印刷された言葉が、知覚手段としての視覚をこのほど優先させる上で重要な役割を果た したと主張する。
| ocularcentrism | 
      視覚中心主義、眼球中心主義(Oxford Reference) | 
    
| A perceptual and epistemological bias ranking vision over other senses in Western cultures. An example would be a preference for the written word rather than the spoken word (in which case, it would be the opposite of phonocentrism). Both Plato and Aristotle gave primacy to sight and associated it with reason. We say that ‘seeing is believing’, ‘see for yourself’, and ‘I'll believe it when I see it with my own eyes’. When we understand we say, ‘I see’. We ‘see eye to eye’ when we agree. We imagine situations ‘in the mind's eye’. ‘See what I mean?’ Commentators such as McLuhan argue that literacy and the printed word have played a key part in the elevation of the eye to such primacy as a way of knowing. See also McLuhanism; sense ratio; visualism. | 西洋文化において、視覚を他の感覚より優位に置く知覚的・認識論的偏りがある。例えば、話し言葉より書き言葉が好まれる傾向(この場合、音声中心主義と は逆の傾向となる)が挙げられる。プラトンもアリストテレスも視覚を最優先し、それを理性と結びつけた。我々は「百聞は一見に如かず」「自分の目で確かめ ろ」「自分の目で見てから信じる」と言う。理解した時は「なるほど」と言い、意見が一致した時は「見解が一致する」と言う。我々は状況を「心の目で」想像 する。「言わんことを分かるか?」マクルーハンら評論家は、識字能力と印刷された言葉が、知覚手段としての視覚をこのほど優先させる上で重要な役割を果た したと主張する。マクルーハン主義、感覚比率、視覚主義も参照のこと。 | 
| https://www.oxfordreference.com/display/10.1093/oi/authority.20110803100245338 | 
      |
| sense ratio | 
      感覚比率 | 
    
| McLuhan's
metaphor for the relative dominance of the various human senses within
the human ‘sensorium’. He argued that different media extend different
senses, and their ‘interiorization’ transforms mental processes. He
phonocentrically romanticized oral cultures, and saw writing and
printing as having led to an ocularcentrism which disrupted what he saw
as the natural balance of the senses. He also saw electronic media as
restoring this balance by ‘stimulating all the senses simultaneously’. | 
      マ
クルーハンが提唱した隠喩は、人間の「感覚器」における各種感覚の相対的な優位性を示すものだ。彼は、異なるメディアが異なる感覚を拡張し、それらの「内
面化」が精神的なプロセスを変容させると主張した。彼は音声中心主義的に口頭文化をロマンチックに捉え、文字と印刷が感覚の自然な均衡を乱す視覚中心主義
をもたらしたと見た。また電子メディアは「全ての感覚を同時に刺激する」ことでこの均衡を回復すると考えた。 | 
    
| visualism | 
      視覚主義(ヴィジュアリズム) | 
    
| 1. Most broadly, a bias in favour of that which can be seen. 2. For Greek visualism, see ocularcentrism. 3. (hegemonic visualism) The dominance of postmodern culture by visual media, stimulated by new technologies of image production and dissemination: see also aestheticization; image; spectacle; spectacularization; surveillance; visual imperative.  | 
      1. 最も広く言えば、目に見えるものを優先する偏りである。 2. ギリシャの視覚主義については、視覚中心主義(ocularcentrism)を参照せよ。 3. (ヘゲモニック・ヴィジュアリズム)新たな画像制作・流通技術によって促進された、ポストモダン文化における視覚メディアの支配。美的化、イメージ、スペクタクル、スペクタキュラリゼーション、監視、視覚的要請も参照せよ。  | 
    
| マーティン・ジェイ『うつむく眼:二〇世紀フランス思想における視覚の失墜』亀井大輔 [ほか] 訳、東京 : 法政大学出版局 , 2017.12 | 
      序論 第1章 もっとも高貴な感覚―プラトンからデカルトにいたる視覚の変遷 第2章 啓蒙(EnLIGHTenment)の弁証法 第3章 視覚の旧体制の危機―印象主義者からベルクソンへ 第4章 眼の脱呪術化―バタイユとシュルレアリストたち 第5章 サルトル、メルロ=ポンティ、新しい視覚の存在論の探求 第6章 ラカン、アルチュセール、イデオロギーの鏡像的主体 第7章 眼差しの帝国からスペクタクルの社会へ―フーコーとドゥボール 第8章 死を呼び起こすものとしてのカメラ―バルト、メッツ、『カイエ・デュ・シネマ』 第9章 「ファルス‐ロゴス‐視覚中心主義」―デリダとイリガライ 第10章 盲目の倫理とポストモダンの崇高―レヴィナスとリオタール 結論  | 
    
☆マーティン・ジェイ『うつむく眼:二〇世紀フランス思想における視覚の失墜』亀井大輔 [ほか] 訳、東京 : 法政大学出版局 , 2017.12(訳者あとがきより)
| 本書で著者は、古代ギリシア以来のヨーロッパ
の思想や文化に「視覚」をもっとも高貴な感覚とみなす傾向がある、ということから語り始める。そして、とりわけ近代になって視覚は中心の座を占めたが、そ
うした視覚中心主義も次第に危機に陥り、二〇世紀フランスにおけるさまざまな思想にいたっては反対に、総じて視覚に対する嫌悪や批判や攻撃がみられる、つ
まり反視覚中心主義が広まっている、ということを大胆かつ丹念な筆致で描き出している。 | 
      (訳者あとがきより) | 
| ヨーロッパ思想における視覚の重要性についてはこれまでも論じられてき
たが、現代フランス思想の全体に反視覚中心主義が染み込んでいることを論じたのは本書の慧眼だろう。むろん、本書の狙いは百花繚乱のフランス思想を一括り
にして片付けることではない。視覚をめぐる隠れた次元を明るみに出すことによって、ヨーロッパ思想史の長いスパンのなかで二〇世紀フランス思想に新たな光
を投げかけることや、それをつうじて現代の意味を根底から考察することも意図されていよう。 | 
      |
| 本書の圧倒的な量については一目瞭然であるが、古典から最新の研究書ま
で膨大な文献の渉猟、西洋の歴史全体を見渡す透徹した視野、歴史物語的な論述の巧みさなど、本書の魅力は尽きない。視覚論の基本文献としてすでに確固とし
た評価を得ている本書であるが、全体を通覧的に読みとおしても、読者の興味関心に従ってどの章から読み進めても、あらためてその面白さを実感することがで
きるはずである。 | 
      |
| 第1章では、まず古代のギリシアにおいて、視覚がもっとも優位に置かれ
ていたこととその含意が、複数の文献を手がかりに明らかにされる。一言で「視覚」といっても単純ではなく、身体の眼による視覚と、精神の眼による視覚の双
方があいまって、西洋の視覚中心主義を形成してきたことも述べられる。続いて、中世とルネサンスがいかに近代の視覚中心主義を準備したかが語られる。そし
て、近代の支配的な視覚体制となった「デカルト的遠近法主義」の由来が、デカルトの『屈折光学』を詳しく見ていくことで考察される。 | 
      第1章 もっとも高貴な感覚―プラトンからデカルトにいたる視覚の変遷 | 
| 第2章では、啓蒙時代に入っても視覚中心主義が依然として続いていくな
かで、次第に視覚の優位が動揺していく様子が描かれる。まずはスタロバンスキーを案内役に、一八世紀フランスのさまざまな側面が観察される。ルイ一四世の
治世、コルネイユとラシーヌの演劇、モンテスキューとルソー、フランス革命、ディドロとモリヌークス問題といった諸点である。次いで、一九世紀における視
覚をめぐる変動が、パリの都市風景の急速な変化と、カメラの発明という視点から描写される。 | 
      第2章 啓蒙(EnLIGHTenment)の弁証法 | 
| 第3章では、二〇世紀に入り第一次世界大戦直後までの時代に生じた視覚
の優位から廃位への反転が、芸術、文学、哲学それぞれの事例に即して語られる。まず、印象主義以降の視覚芸術の歴史がたどられ、マルセル・デュシャンの反
網膜主義の諸作品が詳しく論じられる。次に、フランス文学の歴史が主題となり、ボードレール、マラルメ、そしてとりわけプルーストの『失われた時を求め
て』に焦点が当てられる。最後に、ベルクソンの哲学がフランス哲学における視覚中心主義批判の皮切りとなったことが、『時間と自由』『物質と記憶』などの
主要著作の読解をつうじて示される。 | 
      第3章 視覚の旧体制の危機―印象主義者からベルクソンへ | 
| 第4章では、第一次世界大戦後、視覚中心主義批判はより激しくなったこ
とが描かれる。このことは、ジョルジュ・バタイユとシュルレアリストによる眼へのこだわりによって示される。バタイユについては、その戦時体験、盲目の父
との関係、『眼球譚』、『太陽肛門』や他の多くの論考がたどられる。とりわけ「不定形」「迷宮」といったイメージは、バタイユ以後の反視覚的な思想におい
ても執拗に繰り返されるものとなる。シュルレアリストについては、ブルトンとバタイユの反目、幻視的啓示としての眼、夢のイメージ、シュルレアリスム写真
や映画(とくに『アンダルシアの犬』)などが論じられる。 | 
      第4章 眼の脱呪術化―バタイユとシュルレアリストたち | 
| 第5章では、まずドイツの哲学者フッサールとハイデガーの視覚をめぐる
態度について論じられた後、彼らをフランスに導入したジャン=ポール・サルトルとモーリス・メルロ=ポンティが対照的に語られる。サルトルは、自伝的な要
素、小説『嘔吐』での触覚重視、さらには『存在と無』での相互敵対的な「眼差し」の理論によって、視覚中心主義への強烈な批判者と位置づけられる。それに
対してメルロ=ポンティの知覚の現象学は、視覚の高貴さを回復する試みとみなされるが、それでもそのなかには反視覚中心的な要素が含まれていることが論じ
られる。 | 
      第5章 サルトル、メルロ=ポンティ、新しい視覚の存在論の探求 | 
| 第6章では、まずフロイトの精神分析が視覚に対してどのような態度を
とっていたかについて述べられた後、ジャック・ラカンの鏡像段階の理論、続いて眼と眼差しの分裂と絡み合いが論じられる。鏡で自己の身体を見ることは一種
の「誤認」である、という鏡像段階論は、ルイ・アルチュセールによってマルクス主義へと橋渡しされ、彼はイデオロギーがこの誤認によって成立すると論じ
た。こうして一九六〇・七〇年代のマルクス主義に反視覚中心的な感情が広がった。最後に、アルチュセールが幼少時に眼を特権化していたという自伝での告白
が、一九八〇年代でも反視覚中心主義の力が続いたことの例示として紹介される。 | 
      第6章 ラカン、アルチュセール、イデオロギーの鏡像的主体 | 
| 第7章では、現代社会に対する視覚中心主義の弊害を、監視の社会もしく
はスペクタクルの社会として告発した人物であるミシェル・フーコーとギー・ドゥボールが論じられる。フーコーについては、初期の現象学時代から『狂気の歴
史』、ルーセル論、『言葉と物』にいたる視覚への注目がたどられた後、『監獄の誕生』での一望監視の眼差しの権力にかんする考察が繰り広げられる。ドゥ
ボールをめぐっては、シチュアシオニスト・インターナショナルの成立過程や活動内容から、著書『スペクタクルの社会』、活動の終焉までが見届けられる。 | 
      第7章 眼差しの帝国からスペクタクルの社会へ―フーコーとドゥボール | 
| 第8章では、文化批評家のロラン・バルトと、映画理論家のクリスチャ
ン・メッツならびに映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の執筆者たちが取り上げられる。まず、バルトと視覚をめぐる議論が、とりわけ『明るい部屋』での写
真論を中心に、自伝的テクスト『ロラン・バルト』の解釈も挟みながら展開される。次いで、フランスの映画批評・映画理論の歴史をたどりつつ、一九六〇年代
末に生じた新たな論調として、映画を「装置」として捉えるボードリーやメッツの映画理論が考察される。その議論は視覚中心主義批判が頂点を迎えた瞬間だと
みなされる。 | 
      第8章 死を呼び起こすものとしてのカメラ―バルト、メッツ、『カイエ・デュ・シネマ』 | 
| 第9章では、ジャック・デリダの脱構築と、その影響を受けたフレンチ・
フェミニズムのリュス・イリガライにおける視覚とのかかわりが考察される。両者はともに反視覚中心主義をさらに燃え上がらせた。デリダの場合、視覚を他の
感覚や言語と絡み合わせて複雑にしていくその手つきが、絵画や写真を論じたテクストを中心にたどられる。イリガライは視覚中心主義とファルス中心主義の結
びつきを明らかにした人物として取り上げられ、ジェンダーと言語の関係への注目、ラカンの鏡像段階論との対決、プラトンの解釈などが論究される。 | 
      第9章 「ファルス‐ロゴス‐視覚中心主義」―デリダとイリガライ | 
| 第10章は、ポストモダニズムが主題であるが、それがユダヤ教への接近
という視点から論じられる。取り上げられるのは、エマニュエル・レヴィナスとジャン=フランソワ・リオタールである。レヴィナスについては、友人ブラン
ショとの親和性、その倫理における聴覚や触覚の役割などが論じられる。リオタールについては、『言説、形象』での視覚論、ユダヤ的な偶像忌避にかんする論
考、ポストモダンの崇高論などが検討され、最後に彼が携わった展示会「非物質的なもの」のなかに、現代社会のポストモダン的状況に残された視覚の可能性が
探し求められる。 | 
      第10章 盲目の倫理とポストモダンの崇高―レヴィナスとリオタール | 
| 最後に結論では、本論の成果が確認され、かつての地位を奪われた視覚の
行方に思いが馳せられる。ジェイによれば、視覚は反視覚中心主義の攻撃をくぐり抜けて、かろうじて生き延びているということである。─では本書の刊行から
二五年が経過した現在、視覚の行方はどうなっているのだろうか。映像技術、コンピューター、インターネット、人工知能の発展が目まぐるしい現代、われわれ
の「視覚」は否応なく激しい変動にさらされ続けている。では現代の思想や言説において、視覚はどのような地位にあるのだろうか。これを考えるのは、われわ
れ読者に与えられた課題であろう。 | 
      |
| https://note.com/hup/n/n7c8451c63239 | 
リ ンク
文 献
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CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099