冷戦期を生きたオスカー・ルイス
Oscar Lewis, who lived through the Cold War era
☆
| ——オスカー・ルイス(1914-1970)—— | 年 | 
      ——冷戦—— | 
| 1914年12月25日  ニューヨーク市にて、ラビの男児として出生(ウクライナ系ユダヤ人) | 
      1914 | 
      第一次世界大戦(1914-1918年) | 
    
| 1915 | 
      ||
| 1916 | 
      ||
| 1917 | 
      ロシア革命(1917年) | 
    |
| 1918 | 
      ||
| 1919 | 
      ||
| 1920 | 
      ||
| 1921 | 
      ||
| 1922 | 
      ||
| 1923 | 
      ||
| 1924 | 
      ||
| 1925 | 
      ||
| 1926 | 
      ||
| 1927 | 
      ||
| 1928 | 
      ||
| 1929 | 
      経済大恐慌(1929年) | 
    |
| 1930年にロバー ト・レッドフィールドがテポストランで調査 | 
      1930 | 
      |
| 1931 | 
      ||
| 1932 | 
      ||
| 1933 | 
      ||
| 1934 | 
      ||
| 1935 | 
      ||
| 1936年にニューヨーク・ シティ・カレッジで歴史学の学士号を取得 | 
      1936 | 
      |
| Ruth Maslowと結婚 ルース・ベネディクト(Ruth Fulton Benedict, 1887-1948)と出会い、歴史学から人類学に転向する  | 
      1937 | 
      |
| 1938 | 
      ||
| カナダ・アルバータ州の Brocton
居留地にて最初のフィールドワーク。ブラックフット(Blackfoot, Niitsitapi or
Siksikaitsitapi)の白人との接触に関する(主に文献)研究で学位をとる。 | 
      1939 | 
      第二次世界大戦(1939-1945年) | 
    
| 1940年にコロンビア大学で人類学の博士号を取得 | 
      1940 | 
      |
| 1941 | 
      ||
| ブラックフィート・インディアンにおける白人との接触の影響に関する
博士論文は1942年に出版 | 
      1942 | 
      |
| メキシコにあった、イン ターアメリカン先住民
協会(Inter-American Indian Institute)[pdf]の
米国代表としてメキシコに赴任。Tepoztlán研究をはじめる。 | 
      1943 | 
      |
| 1944 | 
      ||
| 1945 | 
      第二次大戦終結 | 
    |
| 1946 | 
      国共内戦(1946年-1950年) 第一次インドシナ戦争(1946年-1954年)  | 
    |
| 1948 Urbana-
Champaignのイリノイ大学人類学部に赴 任 | 
      1947 1948  | 
      冷戦(1947-1991年) 第一次中東戦争 (1948年-1949年)  | 
    
| 1949 | 
      ||
| 1950 | 
      朝鮮戦争(1950年-1953年) | 
    |
| メキシコの村の生活;テポスラン再研究、1960年[初版1951年]——Life
in a Mexican Village; Tepoztlán restudied, 1960 [first edition 1951] | 
      1951 | 
      |
| イリノイ大学にジュリアン・スチュワード(1902-1972)が赴
任。 | 
      1952 | 
      カタリナ事件(1952年) | 
    
| 1953 | 
      ||
| 1954 | 
      ||
| ハイシエラ・カントリー、1955年(High Sierra
Country, 1955) | 
      1955 | 
      |
| 1956 | 
      ハンガリー事件(1956年) スエズ戦争(1956年)  | 
    |
| 1957 | 
      スプートニク打ち上げ成功(1957年) | 
    |
| 北インドの村落生活;デリーの村落研究(1958年) | 
      1958 | 
      中台危機(1958年) ベルリン危機(1958年-1961年)  | 
    
| 『5つの家族;貧困文化におけるメキシコの事例研究』1959年 | 
      1959 | 
      |
| 1960 | 
      ベトナム戦争(1960年-1975年) U-2撃墜事件(1960年) ウォルト・ロストウ「経済成長の段階」  | 
    |
| 『サンチェスの子供たち——あるメキシコ人家族の自伝』(1961年) | 
      1961 | 
      |
| 1962 | 
      キューバ危機(1962年) | 
    |
| 1963 | 
      ||
| 『ペドロ・マルティネス-メキシコ農民とその家族』1964年 | 
      1964 | 
      |
| ダニエル・モイニハンが1965年に労働省に提出した報告書
『The Negro Family(ニグロの家族)』で貧困文化論が応用された | 
      1965 | 
      |
| La Vida; A Puerto Rican Family
in the Culture of Poverty-サンフアンとニューヨーク、1966年 | 
      1966 | 
      |
| 1967 | 
      ||
| 1968 | 
      チェコスロバキアのプラハの春(1968年) | 
    |
| サンチェス家の死, 1969 | 
      1969 | 
      1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。 | 
    
|  1970年に55歳で心不全のためニューヨークで死去 『人類学エッセイ』(1970年)  | 
      1970 | 
      |
| 1971 | 
      ||
| 1972 | 
      米ソ 間で戦略兵器制限交渉
(SALT)を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。 | 
    |
| エドウィン・イームズ(Edwin
Eames)とジュディス・グッド(Judith
Goode)は、よく知られた1973年の「貧困文化論」の適用に対する反論の中で、母子家庭や相互扶助など、貧困に関連する特徴の多くは合理的な適応で
あると主張 | 
      1973 | 
      1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベ
トナムから撤退した。 | 
    
| 1974 | 
      エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したた
め、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国とルーマニア、エジプトなどが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力
が対立し内戦となり、これに南アフリカとザイールとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼化した。 | 
    |
| 1975 | 
      1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落
ち、同時にラオス、カンボジアでも共産主義勢力が政権を獲得し、インドシ ナ半島は完全に赤化された。 | 
    |
| 1976 | 
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| 1977 | 
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| 1978 | 
      ||
| 1979 | 
      イラン革命(1979年) 1978年に成立した共産主義政権を支えるために、1979年にソ連が アフガニスタンに侵攻した。  | 
    |
| 1980 | 
      イラン・イラク戦争(1980年-1988年) | 
    |
| 1981 | 
      ||
| 1982 | 
      フォークランド紛争 (1982年) | 
    |
| 1983 | 
      ロナルド・レーガンによる「悪の帝国発言」と戦略防衛構想(1983
年) | 
    |
| 1984 | 
      ||
| 1985 | 
      ||
| 1986 | 
      ||
| 1987 | 
      1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印 | 
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| 1988 | 
      ||
| 1989 | 
      11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともい
うべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・
チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、東欧革命という。1989年12
月には、地中海のマルタ島で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した | 
    |
| 1990 | 
      1990年8月に起きた湾岸戦争では、欧米ソ中が世界第四の軍事大国に
仕立てたイラクのクウェート侵攻に対するアメリカ主導の武力行使容認決議にソ連は同
調し、米ソで二極化してきた世界はアメリカ一極化への兆しが見え始めた。アメリカは、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切り
にアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。 1990年3月から6月にかけて東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バ ルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト三国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件(リトアニア)などで、ソ連 軍と民間人が衝突する事態になった。  | 
    |
| 1991 | 
      12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラ
フチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチがベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)
の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は消滅した。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本
主義国家となった。 | 
    
リ ンク
文 献
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CC
Copyleft,
CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099