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方法序説 第4部

デカルト 方法序説 第4部 三宅徳嘉・小池健男訳(白水社版)、Pp.38-45、1973年。

池田光穂

☆「『方法序説』(ほ うほうじょせつ、方法叙説とも、仏: Discours de la méthode)とは、1637年に公刊されたフランスの哲学者、ルネ・デカルトの著書である。 刊行当時の正式名称は、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』(りせいを ただしくみちびき、がくもんにおいてしんりをたんきゅうするためのほうほうのはなし。くわえて、そのこころみであるくっせつこうがく、きしょうがく、きか がく、仏: Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.)であり、元来は3つの科学論文集を収めた500ページを超える大著だった。今日の『方法序説』として扱われているテキストは、その書籍 中の最初の78ページの「序文」部分であり[1]、自身の方法論の発見・確立や刊行に至るまでの経緯を述べている。 序説と訳されるDiscoursは、Traitéが教科書のように体系的に書かれた論説であるのに対して、形式ばらない論考の意であり、デカルト自身がメ ルセンヌへの書簡で「方法の試み」であると呼んでいる。哲学的な内容はその後に出版された『省察 Meditationes de prima philosophia』とほぼ重なっているが、『方法序説』は自伝の記述をふくみ、思索の順序を追ってわかりやすく書かれているため、この一冊でデカル ト哲学の核心を知ることができる。当時、多くの本がラテン語で書かれることが多い中、ラテン語の教育を受ける可能性が低かった当時の女性や子供たちでも読 めるように、フランス語で書かれ、6つの部分に分かれている。 オランダのライデンで出版され、その後ラテン語に翻訳されて、1656年にアムステルダムで出版された。初版は、宗教裁判によって異端とされることを恐れ て、偽名で発行された。」

第1部は「良識(bon sens)はこの世でもっとも公平に配分されているものである」という書き出しで始まる。ここでの良識は理性と同一視できるものとされる。健全な精神を 持っているだけでは十分ではない。この序説の目的は、理性を正しく導くためにしたがうべき方法を教えるというより、デカルト自身が種々の心得や考察に至る までにどのような道筋をたどったかを示すことである、と宣言する。学校での全課程を修了し「珍奇な学問 Sciences occulte」まで渉猟しつくしたにもかかわらず、多くの疑惑にとらわれている自分を発見したデカルトは、語学・歴史・雄弁・詩歌・数学・神学・スコラ 学・法学・医学は、有益な学問ではあるがどれも不確実で堅固な基盤を持っていないことが分かり、文字の学問をすっかり投げ打つことにした、と語る。

第2部は、三十年戦争に従軍してドイツにいたときの思索について述べる。有名な「暖炉」に一 日中こもって、最初に考えたことは一人の者が仕上げた仕事はたくさんの人の手を経た仕事に比べて完全であり、一人の常識ある人間が自分の目の前の事柄に単 純に下す推論は多くの異なった人々によって形成された学問より優れている、ということだった。賛成者が多いということは、発見しがたい真理に対しては何の 価値もない証明である。したがってデカルトはその時まで信頼して受け容れてきた意見から脱却することを志した。その際に精神を導く4つの準則として

1. 私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと

2. 検討しようとする難問をよりよく理解するために、多数の小部分に分割すること

3. もっとも単純なものからもっとも複雑なものの認識へと至り、先後のない事物の間に秩序 を仮定すること

4. 最後に完全な列挙と、広範な再検討をすること

を定めた。これによりデカルトは代数学や他の諸科学を検討して、理性を有効に活用し得たと感 じたが、それらの諸科学の基本となるべき哲学の原理を見いだしていないことに気づく。このとき彼は23歳であったが、もっと経験を積み円熟した年齢になる まで、悪い見解や誤謬を自分から根絶するために多くの時間を費やすことを決意する。

第3部は、理性が不決断である間でも自分の行為を律し幸福な生活を送るためにデカルトが設け た3つの道徳律を紹介する。

1. 自分の国の法律と習慣に従うこと。

2. 一度決心したことは断固かつ毅然として行うこと。

3. つねに運命よりも自分に克つことにつとめ、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように 努力すること。

デカルトは理性を教化し自分が自分で決めた方法に従って真理の認識に近づくことを、自分に とって最善の職業と考えた。暖炉部屋を出て、9年間は世間を見て歩き、疑わしいもの・誤謬を観察反省し、1628年いよいよ哲学の基礎を定めるため、オラ ンダに隠遁することにした。

第4部でデカルトは、少しでも疑問を差し挟む余地あるものは疑い、感覚・論証・精神に入りこ んでいた全てを真実でないと仮定しても、一切を虚偽と考えようとする「私」はどうしても何者かでなければならないことに気づく。フランス語で書かれた『方 法序説』の「Je pense, donc je suis」私は考えるので私はあるを、デカルトと親交のあったメルセンヌがラテン語訳し「Cogito ergo sum」「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スムとした。この命題は、我々が明瞭かつ判然と了解するものはすべて真実であることを一般規則として導 く。その規則からデカルトは、さらに神の存在と本性・霊魂について演繹している。

第5部で、公表を控えていた論文『世界論』(『宇宙論』)の内容を略述する。

第6部では、ガリレイの審問と地動説の否認という事件が、デカルトに自分の物理学上の意見の 公表を躊躇させたと述べる。人間を自然の主人とするための生活にとって有用な知識に到達することは可能であり、それを隠すことはデカルトにも大罪と思われ た。実験や観察は重要であり、公衆がそれから得る利益を互いに公開することが今後大切になるはずだと。しかし、ガリレオ事件で教訓を得たデカルトは、まだ 発見されていない若干の真理を探究する時間を失わないために、反駁や論議を招くような自分の著書は生前に出版することを断念することにした。しかし自分が 著作を用意していたことを知る人々に意図を誤解されないよう、1634年になって書かれた論考から慎重に選ばれた『屈折光学』『気象学』『幾何学』に『方 法序説』を附して公表することに同意した、と述べる。

1.
Je ne sais si je dois vous entretenir des premières méditations que j'y ai faites; car elles sont si métaphysiques  et si peu communes, qu'elles ne seront peut-être pas au goût de tout le monde. Et toutefois, afin qu'on puisse juger si les fondements que j'ai pris sont assez fermes, je me trouve en quelque façon contraint d'en parler. J'avais dès longtemps remarqué que, pour les mœurs, il est besoin quelquefois de suivre des opinions qu'on sait fort incertaines, tout de même que si elles étaient indubitables, ainsi qu'il a été dit ci-dessus; mais, parce qu'alors je désirais vaquer seulement à la recherche de la vérité, je pensai qu'il fallait que je fisse tout le contraire, et que je rejetasse, comme absolument faux, tout ce en quoi je pourrais imaginer le moindre doute afin de voir s'il ne resterait point, après cela, quelque chose en ma créance, qui fût entièrement indubitable. Ainsi, à cause que nos sens nous trompent quelquefois, je voulus supposer qu'il n'y avait aucune chose qui fût telle qu'ils nous la font imaginer. Et parce qu'il y a des hommes qui se méprennent en raisonnant, même touchant les plus simples matières de géométrie, et y font des paralogismes, jugeant que j'étais sujet à faillir, autant qu'aucun autre, je rejetai comme fausses toutes les raisons que j'avais prises auparavant pour démonstrations. Et enfin, considérant que toutes les mêmes pensées, que nous avons étant éveillés, nous peuvent aussi venir, quand nous dormons, sans qu'il y en ait aucune, pour lors, qui soit vraie, je me résolus de feindre que toutes les choses qui m'étaient jamais entrées en l'esprit n'étaient non plus vraies que les illusions de mes songes. Mais, aussitôt après, je pris garde que, pendant que je voulais ainsi penser que tout était faux, il fallait nécessairement que moi, qui le pensais, fusse quelque chose. Et remarquant que cette vérité :je pense, donc je suis, était si ferme et si assurée, que toutes les plus extravagantes suppositions des sceptiques n'étaient pas capables de l'ébranler, je jugeai que je pouvais la recevoir, sans scrupule, pour le premier principe de la philosophie que je cherchais.

【1】

その地でおこなった最初の省察をお話しすべきかどうかはわかりません。というのもこの省察は〈形而上学〉で扱うようなひどく現実ばなれのした、ありふれて いない必のなので、おそらくみなさんの好みにあわないでしょうから。ところが、私の選んだ基礎がじゅうぶんしっかりしているかどうかを判断していただける ためには、どうしてもそれをお話ししなければならない、いわばそういうはめに陥っているのに気がついたのです。だいぶまえから私は、生き方については、ひ どく不確かだとわかっている意見でも、疑う余地のないものだったばあいとまったく同じように、それに従う必要がときにはあると気づいていました。これはま えにも申しあげたとおりです。しかし、そのころはただひたすら真理の探求に打ち込みたいと願っていましたので、その正反対のことをやり、ほんの少しでも疑 いをふくむと想像されるおそれのあるものはみな、ぜったいにまちがっているとしてしりぞけるのが必要だと考えました。どこにも疑いをさしはさむ余地のない ものが、そのあとで、何か私の信念に残りはしないかを見ようとして、そう考えたのです。たとえば私たちの感覚はときどき私たちを欺くので、どんなものでも 感覚が私たちに想像させるとおりのものはないと私は想定しようと思ったのです。そして〈幾何学〉のどんなに単純な素材を扱うときにも、推論をするうちに勘 ちがいをし、〈誤謬推理〉をする人がいるのですから、私もほかのどんな人とも同じだけまちがいを犯しやすいのだと判断して、それ以前に〈論証〉とみなして いた論拠をどれもこれもまちがったものとしてしりぞけました。そして最後に、私たちが目を覚ましていていだく同じ考えがどれもみな眠っているときにやって くることもありうるが、そのときには何ひとつほんとうのものはないということを考えめぐらして、私は、それまでに自分の精神にはいりこんでいたものはみ な、私の夢のまぼろし以上にほんとうではないと仮想することに決めまじた。しかし、すぐあとで、そんなふうにどれもまちがいだと考えたいと思っているあい だにも、そう考えている自分は何かであることがどうしても必要だということに気づきました。そしてこの「私は考える、だから私は有る」という真理はいかに もしっかりしていて、保証つきであるため、〈懐疑論者たち〉のどんなに並みはずれた想定を残らず使ってもこれをゆるがすことができないのを見てとって、私 はこの真理を、求めていた〈哲学〉の第一の原理として、疑惑なしに受け入れることができると判断しました。
2.

Puis, examinant avec attention ce que j'étais, et voyant que je pouvais feindre que je n'avais aucun corps, et qu'il n'y avait aucun monde, ni aucun lieu où je fusse; mais que je ne pouvais pas feindre, pour cela, que je n'étais point; et qu'au contraire, de cela même que je pensais à douter de la vérité des autres choses, il suivait très évidemment et très certainement que j'étais; au lieu que, si j'eusse seulement cessé de penser, encore que tout le reste de ce que j'avais jamais imaginé eût été vrai, je n'avais aucune raison de croire que j'eusse été : je connus de là que j'étais une substance dont toute l'essence ou la nature n'est que de penser, et qui, pour être, n'a besoin d'au¬cun lieu, ni ne dépend d'aucune chose matérielle. En sorte que ce moi, c'est-à-dire l'âme par laquelle je suis ce que je suis, est entièrement distincte du corps, et même qu'elle est plus aisée à connaître que lui, et qu'encore qu'il ne fût point, elle ne laisse¬rait pas d'être tout ce qu'elle est.
【2】

それから、自分が何であるかを注意ぶかく検討し、そして自分にはどんな体もなく、またどんな世界も、自分がいるどんな揚所もないと仮想することはできて も、だからといって自分が無いと仮想することはできないし、それどころか、ほかのいろいろなものがほんとうであるかどうかを疑おうと考えていること自体か ら、私が有るということがきわめて明白確実に出てくるのにたいして、一方では、ただ私が考えることをやめさえしたら、たとえ私がかつて想像したものの残り ぜんぶがほんとうであったとしても、私には自分が有ったと信じるどんな理由もなくなるだろうということを見て、私はそこから、自分がひとつの実体であり、 その実体の本質なり本性なりは考えることだけにつきるし、またその実体は有るためにどんな揚所も必要としなければ、どんな物質的なものにも依存しないこと を認識したのです。ですからこの〈私〉、つまり私を現在あるものにしている〈魂〉は、体とはまるきりべつなものであり、しかも体よりも認識しやすく、たと え体が無かったとしてもそっくり今あるままであることに変わりはないでしょう。
3.

Après cela, je considérai en général ce qui est requis à une proposition pour être vraie et certaine; car, puisque je venais d'en trouver une que je savais être telle, je pensai que je devais aussi savoir en quoi consiste cette certitude. Et ayant remarqué qu'il n'y a rien du tout en ceci : je pense, donc je suis, qui m'assure que je dis la vérité, sinon que je vois très clairement que, pour penser, il faut être : je jugeai que je pouvais prendre pour règle générale, que les choses que nous concevons fort claire¬ment et fort distinctement sont toutes vraies; mais qu'il y a seulement quelque difficulté à bien remarquer quelles sont celles que nous concevons distinctement.
【3】

そのあとで、私は、ひとつの命題にとってほんとうで確かであるためには何が要求されるかを、全般にわたって考えめぐらしました。というのも、私がほんとう で確かであることを知っているひとつの命題をいま見つけたところでしたから、その確実さがどういう点から成り立つのかも私は知っているはずだと考えたから です。そしてこの「私は考える、だから私は有る」ということのなかには、私の言っていることがほんとうだと保証してくれるものは、考えるためには有ること が必要だとひじようにはっきりわかっていること以外には何もないの.を見てとって、私はつぎのように判断しました。私たちがきわめてはっきりとまぎれなく つかむものはどれもみなほんとうだということを一般的な規則とみなしていい、しかし私たちがまぎれなくつかむものはどんなものであるかをよく見分けるの に、ただむずかしい点がいくらかあると。
4.

En suite de quoi, faisant réflexion sur ce que je doutais, et que, par conséquent, mon être n'était pas tout parfait, car je voyais clairement que c'était une plus grande perfection de connaître que de douter, je m'avisai de chercher d'où j'avais appris à penser à quelque chose de plus parfait que je n'étais; et je connus évidemment que ce devait être de quelque nature qui fût en effet plus parfaite. Pour ce qui est des pensées que j'avais de plu¬sieurs autres choses hors de moi, comme du ciel, de la terre, de la lumière, de la chaleur, et de mille autres, je n'étais point tant en peine de savoir d'où elles venaient, à cause que, ne remarquant rien en elles qui me semblât les rendre supérieures à moi, je pouvais croire que, si elles étaient vraies, c'étaient des dépendan¬ces de ma nature, en tant qu'elle avait quelque perfection; et si elles ne l'étaient pas, que je les tenais du néant, c'est-à-dire qu'elles étaient en moi, parce que j'avais du défaut. Mais ce ne pouvait être le même de l'idée d'un être plus parfait que le mien : car, de la tenir du néant, c'était chose manifestement impossible; et parce qu'il n'y a pas moins de répugnance que le plus parfait soit une suite et une dépendance du moins parfait, qu'il y en a que de rien procède quelque chose, je ne la pouvais tenir non plus de moi-même. De façon qu'il restait qu'elle eût été mise en moi par une nature qui fût véritablement plus parfaite que je n'étais, et même qui eût en soi toutes les perfections dont je pouvais avoir quelque idée, c'est-à-dire, pour m'expliquer en un mot, qui fût Dieu. A quoi j'ajoutai que, puisque je connaissais quelques perfections que je n'avais point, je n'étais pas le seul être qui existât (j'userai, s'il vous plaît, ici librement des mots de l'École), mais qu'il fallait, de nécessité, qu'il y en eût quelque autre plus parfait, duquel je dépendisse, et duquel j'eusse acquis tout ce que j'avais. Car, si j'eus¬se été seul et indépendant de tout autre, en sorte que j'eusse eu, de moi-même, tout ce peu que je participais de l'être parfait, j'eusse pu avoir de moi, par même raison, tout le surplus que je connaissais me manquer, et ainsi être moi-même infini, éternel, immuable, tout connaissant, tout-puissant, et enfin avoir toutes les per¬fec¬tions que je pouvais remarquer être en Dieu. Car, suivant les raisonnements que je viens de faire, pour connaître la nature de Dieu, autant que la mienne en était capable, je n'avais qu'à considérer de toutes les choses dont je trouvais en moi quelque idée, si c'était perfection, ou non, de les posséder, et j'étais assuré qu'aucune de celles qui marquaient quelque imperfection n'était en lui, mais que toutes les autres y étaient. Comme je voyais que le doute, l'inconstance, la tristesse, et choses semblables, n'y pouvaient être, vu que j'eusse été moi-même bien aise d'en être exempt. Puis, outre cela, j'avais des idées de plusieurs choses sensibles et corpo¬rel¬les : car, quoique je supposasse que je rêvais, et que tout ce que je voyais ou imagi¬nais était faux, je ne pouvais nier toutefois que les idées n'en fussent véritablement en ma pensée; mais parce que j'avais déjà connu en moi très clairement que la nature intelligente est dis¬tincte de la corporelle, considérant que toute composition témoigne de la dépen¬dance, et que la dépendance est manifestement un défaut, je jugeais de là, que ce ne pouvait être une perfection en Dieu d'être composé de ces deux natures, et que, par consé¬quent, il ne l'était pas; mais que, s'il y avait quelques corps dans le monde, ou bien quelques intelligences, ou autres natures, qui ne fussent point toutes parfaites, leur être devait dépendre de sa puissance, en telle sorte qu'elles ne pou¬vaient subsister sans lui un seul moment.
【4】

それにつづいて、私が疑っているということ、したがって私の有が完全無欠ではないことについて、というのも疑うよりは認識するほうが完全度の高いものだと はっきりわかっていたからですが、そうしたことに反省を加えながら、私は自分よりも完全なものを何か考えることをどこから学んだのか探そうと思いつきまし た。そしてそれは現実にいっそう完全な本性をそなえたあるものからにちがいないと明白に認識しました。私の外にあるほかのかずかずのもの、たとえば天空や 大地や光や熱やそのほかの数えきれないものについて私がいだいていた考えはどうかといえば、そうした考えがどこから来たのかそれほど苦労して知ろうとも思 いませんでした。そうした考えを私よりもすぐれたものにしていると思われる点がそれらの考えのなかに何込見あたりませんでしたので、私はつぎのように信じ ることができたからです。もしそうした考えがほんとうならば、私の本性に何か完全さがあるかぎり、私の本性に依存するものであるし、またもしそうした考え がほんとうでないとしたら、私はそれを無から得ている、つまり私に欠陥があるから私のなかにあるのだと。しかし私の有よりも完全な有の観念については同じ であるわけにはいきませんでした。というのもその観念を無かち得ることは、明らかに不可能なことだったからです。そして完全度の高いもののほうが完全度の 低いものの結果でありそれに依存するものであるなどというのは、何もないものから何かが出てくるというのに劣らず矛盾していますから、私はその観念を自分 自身からも得ることはできませんでした。こういうふうにして残るところは、その観念が私よりもほんとうに完全なある本性によって私のなかに置かれたという ことでした。その本性は、しかもどんな完全さであろうと私がそれについて何かしら観念をいだくことのできるかぎりのあらゆる完全さをそれ自体のうちにそな えている、つまりひとことで言いあらわせば、神であるようなものです。これに私はつぎのことを加えました。つまり私は自分の持っていない完全さをいくつか 認識している以上、私だけが存在する唯一の有ではなく(よろしければ、ここで自由に〈学校〉の用語を使うことにします〉、かならず、何かほかのもっと完全 なものがあって、私はそれに依存し、いま持っているものはすべてそこかち得たのにちがいないと。もし私がたつたひとりでほかのどんなものにも依存せずに独 立していて、したがって完全な有から分有しているこのわずかばかりのものをすべて私自身から得たとすれば、私が自分に欠けているのを認識しているあとのも のぜんぷを、同じ理由によって、自分から得ることができ、したがって私自身、無限で永遠で不変で全知で全能になり、そして最後に、どんな完全さでも神のな かにあると私が認めることのできるかぎり残らず身につけることができたはずだからです。というのもいま試みてきた推論に従えば、私の本性にその力のあるか ぎり、神の本性を認識するためには、どんなものでも自分のなかにその観念が何か見つかるものについて、私はただ、それを所有することが完全さであるかない かを考えめぐらしさえすればよかったのですし、またどこかに不完全さが認められるようなものは神のなかに何ひとつなく、そうでないものは何でもあるという 確信をいだいていたからです。たとえば疑いとか、変わりゃすい心とか、悲しみとか、またそれに似たものは、私自身もそんなものから免れたらどんなにうれし いだろうと思っているのですから、神のなかにありえないといおっこともわかりました。それから、そのほかにも、感覚でとらえることができ物体に属するかず かずのものについて私はいろいろな観念を持っていました。というのも、私は夢を見ていて、見るなり想像するなりしているものはどんなものでもみなまちがい だと想定してみても、そういうものの観念がほんとうに私の考えのなかにあることはやはり否定できなかったからです。しかし私は知的な本性が物体的な本性と はま、ぎれもない別なものであることを、すでに私のうちにひじようにはっきり認識していたのですから、合成はどんなばあいでも依存の証拠であり、依存は明 らかに欠陥だということを考えめぐらして、私は以上のことからつぎのように判断しました。この二つの本性から合成されているということは、神のうちにあっ ても完全さではありえないし、したがって神はそうしたものではない、しかしこの世にいろいろな物体や、あるいはまた知性とかその他の本性で、完全無欠とは いえないものが何かあるとしたら、そういうものの有は神の力に依存しているにちがいなく、したがってそういうものは神がなくては一瞬も存続することはでき ないと。
5.

Je voulus chercher, après cela, d'autres vérités, et m'étant proposé l'objet des géo-mè¬tres, que je concevais comme un corps continu, ou un espace indéfiniment étendu en longueur, largeur et hauteur ou profondeur, divisible en diverses parties, qui pouvaient avoir diverses figures et grandeurs, et être mues ou transposées en toutes sortes, car les géomètres supposent tout cela du leur objet, je parcourus quelques-unes de leurs plus simples démonstrations. Et ayant pris garde que cette grande certitude, que tout le monde leur attribue, n'est fondée que sur ce qu'on les conçoit évidemment, suivant la règle que j'ai tantôt dite, je pris garde aussi qu'il n'y avait rien du tout en elles qui m'assurât de l'existence de leur objet. Car, par exemple, je voyais bien que, supposant un triangle, il fallait que ses trois angles fussent égaux à deux droits; mais je ne voyais rien pour cela qui m'assurât qu'il y eût au monde aucun triangle. Au lieu que, revenant à examiner l'idée que j'avais d'un Être parfait, je trouvais que l'existence y était comprise, en même façon qu'il est compris en celles d'un triangle que ses trois angles sont égaux à deux droits, ou en celle d'une sphère que toutes ses parties sont également distantes de son centre, ou même encore plus évidemment; et que, par conséquent, il est pour le moins aussi certain, que Dieu, qui est cet Être parfait, est ou existe, qu'aucune démonstration de géométrie le saurait être.

【5】

そのあとで、私はほかの真理を求めたいと思いました。そして〈幾何学者〉の扱う対象をとりあげましたが、私はそれを連続休として、つまり長さ、幅、高さま たは深さにおいて果てしなくひろがり、いろいろな部分に分割できる空間としてつかんでいました。分割された部分は形と大きさをいろいろに変えることもでき れば、どんなやり方で動かしたり移したりすることもできます。というのも〈幾何学者〉が自分たちの対象にそういうことをすべて想定しているからです。私は 幾何学者のそういう対象をとりあげて、彼らのいちばん簡単な論証にいくつか目を通してみました。するとそうした論証に世間の人がみんな高い確実性を与えて いるとしても、それは私が先ほど申し述べた規則に従って、論証を明白につかんでいるということだけにもとづいているのに気がついたうえ、そうした論証のな かには、論証の対象の存在を保証してくれるようなものは皆無だということにも気づきました。たとえば、ひとつの三角形を想定してみると、その三つの角の和 が二直角に等しくなければならないのはよくわかりましたが、だからといってこの世にひとつでも三角形があると保証してくれるようなものは何も見あたらな かったからです。一方、ある完全な〈有〉についていだいていた観念にたちかえって検討してみると、その観念に存在がふくまれているのがわかりました。それ はちょうど三角形の観念にその三つの角の和は二直角に等しいとか、球面の観念にその部分はどこも中心から距離が等しいということがふくまれているのと同じ ぐあいか、それどころかもっと明白になのです。またしたがって、少なくとも、神、すなわちこの完全な〈有〉であるものが有るもしくは存在することは、〈幾 何学〉のどんな論証とも同じくらい確かだということもわかったのです。
6.

Mais ce qui fait qu'il y en a plusieurs qui se persuadent qu'il y a de la difficulté à le connaître, et même aussi à connaître ce que c'est que leur âme, c'est qu'ils n'élèvent jamais leur esprit au delà des choses sensibles, et qu'ils sont tellement accoutumés à ne rien considérer qu'en l'imaginant, qui est une façon de penser particulière pour les choses matérielles, que tout ce qui n'est pas imaginable leur semble n'être pas intelli¬gible. Ce qui est assez manifeste de ce que même les philosophes tiennent pour maxi¬me, dans les écoles, qu'il n'y a rien dans l'entendement qui n'ait premièrement été dans le sens, où toutefois il est certain que les idées de Dieu et de l'âme n'ont jamais été. Et il me semble que ceux qui veulent user de leur imagination, pour les compren¬dre, font tout de même que si, pour ouïr les sons, ou sentir les odeurs, ils se voulaient servir de leurs yeux : sinon qu'il y a encore cette différence, que le sens de la vue ne nous assure pas moins de la vérité de ses objets, que font ceux de l'odorat ou de l'ouïe; au lieu que ni notre imagination ni nos sens ne nous sauraient jamais assurer d'aucune chose, si notre entendement n'y intervient.
【6】

しかし神を認識するのには、そればかりでなく自分の魂とは何であるかを認識するのにも困難があると思いこむ人は大勢いますが、どうしてそういうことが起こ るかといえば、それはそういう人たちが感覚でとらえることのできるもの以上に自分の精神をけっして高めないからですし、またイメージを浮かべて想像しなけ れば——これは物質的なものにたいする特殊な考え方なのですが——何も考えめぐらさない習慣がすっかりついてしまって、イメージの浮かばないものはどんな ものでもそういう人たちには理解できないように思われるからなのです。〈哲学者たち〉でさえも、理解力のなかにあってまずはじめに感覚のなかになかったも のは何もないというのを、〈学校〉で、格率とみなしていることから——しかも感覚のなかに神の観念と魂の観念がけっしてなかったことは確かですし——以上 のことはじゅうぶん明らかです。そしてそうした観念をとらえるために、自分の想像力を使いたいと思う人たちは、音を聞いたり匂いをかいだりするために、目 を使いたいと思ったばあいとまったく同じようなことをしているように私には思われます。ただしそれでもなおつぎのような相違はあるのです。つまり視覚は、 嘆覚や聴覚に劣らずその対象の真実を私たちに保証してくれるのですが、一方私たちの想像力も感覚も、理解力がそこにはいってこなければ、私たちにどんなも のもけっして保証するすべはないだろうということです。
7.

Enfin, s'il y a encore des hommes qui ne soient pas assez persuadés de l'existence de Dieu et de leur âme, par les raisons que j'ai apportées, je veux bien -qu'ils sachent que toutes les autres choses, dont ils se pensent peut-être plus assurés, comme d'avoir un corps, et qu'il y a des astres et une terre, et choses semblables, sont moins certai¬nes. Car encore qu'on ait une assurance morale de ces choses, qui est telle, qu'il semble qu'à moins que d'être extravagant, on n'en peut douter, toutefois aussi, à moins que d'être déraisonnable, lorsqu'il est question d'une certitude métaphysique, on ne peut nier que ce ne soit assez de sujet, pour n'en être pas entièrement assuré, que d'avoir pris garde qu'on peut, en même façon, s'imaginer, étant endormi, qu'on a un autre corps, et qu'on voit d'autres astres, et une autre terre, sans qu'il en soit rien. Car d'où sait-on que les pensées qui viennent en songe sont plutôt fausses que les autres, vu que souvent elles ne sont pas moins vives et expresses ? Et que les meilleurs esprits y étudient tant qu'il leur plaira, je ne crois pas qu'ils puissent donner aucune raison qui soit suffisante pour ôter ce doute, s'ils ne présupposent l'existence de Dieu. Car, pre¬mièrement, cela même que j'ai tantôt pris pour une règle, à savoir que les choses que nous concevons très clairement et très distinctement sont toutes vraies, n'est assuré qu'à cause que Dieu est ou existe, et qu'il est un être parfait, et que tout ce qui est en nous vient de lui. D'où il suit que nos idées ou notions, étant des choses réelles, et qui viennent de Dieu, en tout ce en quoi elles sont claires et distinctes, ne peuvent en cela être que vraies. En sorte que, si nous en avons assez souvent qui contiennent de la fausseté, ce ne peut être que de celles qui ont quelque chose de confus et obscur, à cause qu'en cela elles participent du néant, c'est-à-dire, qu'elles ne sont en nous ainsi confuses, qu'à cause que nous ne sommes pas tout parfaits. Et il est évident qu'il n'y a pas moins de répugnance que la fausseté ou l'imperfection procède de Dieu, en tant que telle, qu'il y en a que la vérité ou la perfection procède du néant. Mais si nous ne savions point que tout ce qui est en nous de réel et de vrai vient d'un être parfait et infini, pour claires et distinctes que fussent nos idées, nous n'aurions aucune raison qui nous assurât qu'elles eussent la perfection d'être vraies.
【7】


最後に、私が持ち出した論拠によっても、神の存在と自分の魂の存在にじゅうぶん納得のいかない人たちがまだいるならば、そういう人たちがおそらくいっそう 強く確信しているほかのどんなことでも、たとえば体を持っているとか、いろいろな天体とひとつの地球とがあるとか、またそれと似たことでも、それほど確か でないということを知ってほしいと思います。というのも、それらのことについては実際生活のうえでの安心感を持っていて、常軌を逸している人でなければ、 疑うこともできないように思われるほどですが、しかしまた、形而上学的な確実さが問題になるときには、理性に欠けている人でないかぎり、つぎのことに気づ いただけでもじゅうぶん、そのことについて全面的には確信がいだけない根拠になるのを否定できないからです。づまり眠っていながら、べつな体を持っている とか、またほかの天体や、もうひとつの地球を見ていると、そんなことはないのに、想像することも、同じように、ありうるということです。というのも、夢に 浮かぶ考えは、目覚めているときの考えに劣らず生き生きしてあざやかなことがよくあるのを見ると、そのほうがむしろまちがっているというととがどこからわ かるのでしょう。そしてどんなにすぐれた精神の持ち主が好きなだけそういうことを勉強しても、神の存在を前提しておかなければ、こうした疑いを取り除くの にじゅうぶんな論拠は何ひとつ示すことができようとは思えません。というのも、まず第一に、先ほど規則とみなしたこと、づまり私たちがひじようにはっきり とま、ぎれなくつかむものはどれもみなほんとうだということ自体が保証されるのはただ、神が有りまたは存在し、そして神は完全な有であり、私たちのうちに 有るものはみな神に由来するという理由によるだけだからです。そのけっか私たちの観念なり知見なりは、どんなもののなかでもはっきりしてまぎれのないもの であるかぎり、実在の、神に由来するものであって、その点でほんとうでしかありえません。したがって私たちがまちがいをふくむ観念をずいぶんたびたび持つ としても、それは何かまぎらわしくてぼんやりしたところのある観念から来るほかはありえません。こうした点でそれらの観念が無の性質を帯びているからで す。つまりそうした観念が私たちのなかでそのようにまぎらわしいのは、私たちが完全無欠ではないからにほかなりません。そしてまちがいなり不完全さなり が、そうしたものであるかぎり、神から出てくるということには、真理なり完全さなりが無から出てくるのに劣らず矛盾があるのは明白です。しかし私たちのう ちにある実在の、ほんとうのものがみな、完全で無限な有から来ていることを知らなかったら、私たちの観念がどんなにはっきりしてまぎれがなくても、それら の観念がほんとうであるという完全さを持つことを保証してくれるような理由を私たちは何ひとつ持たなくなるでしょう。
8.

Or, après que la connaissance de Dieu et de l'âme nous a ainsi rendus certains de cette règle, il est bien aisé à connaître que les rêveries que nous imaginons étant endormis ne doivent aucunement nous faire douter de la vérité des pensées que nous avons étant éveillés. Car, s'il arrivait, même en dormant, qu'on eût quelque idée fort dis¬tinc¬te, comme, par exemple, qu'un géomètre inventât quelque nouvelle dé¬mons-tration, son sommeil ne l'empêcherait pas d'être vraie. Et pour l'erreur la plus ordi-naire de nos songes, qui consiste en ce qu'ils nous représentent divers objets en même façon que font nos sens extérieurs, n'importe pas qu'elle nous donne occasion de nous défier de la vérité de telles idées, à cause qu'elles peuvent aussi nous tromper assez souvent, sans que nous dormions : comme lorsque ceux qui ont la jaunisse voient tout de couleur jaune, ou que les astres ou autres corps fort éloignes nous paraissent beaucoup plus petits qu'ils ne sont. Car enfin, soit que nous veillions, soit que nous dormions, nous ne nous devons jamais laisser persuader qu'à. l'évidence de notre raison. Et il est à remarquer que je dis, de notre raison, et non point, de notre imagina¬tion ni de nos sens. Comme, encore que nous voyons le soleil très clairement, nous ne devons pas juger pour cela qu'il ne soit que de la grandeur que nous le voyons; et nous pouvons bien imaginer distinctement une tête de lion entée sur le corps d'une chèvre, sans qu'il faille conclure, pour cela, qu'il y ait au monde une chimère : car la raison ne nous dicte point que ce que nous voyons ou imaginons ainsi soit véritable. Mais elle nous dicte bien que toutes nos idées ou notions doivent avoir quelque fondement de vérité; car il ne serait pas possible que Dieu, qui est tout parfait et tout véritable, les eût mises en nous sans cela. Et parce que nos raisonnements ne sont jamais si évidents ni si entiers pendant le sommeil que pendant la veille, bien que quelquefois nos imaginations soient alors autant ou plus vives et expresses, elle nous dicte aussi que nos pensées ne pouvant être toutes vraies, à cause que nous ne sommes pas tout parfaits, ce qu'elles ont de vérité doit infailliblement se rencontrer en celles que nous avons étant éveillés, plutôt qu'en nos songes.
【8】

ところで、神と魂とを認識したけっか私たちがこの規則をこうして確かだとみなすようになったあとでは、眠っていながら妄想を思い描くからといって、目覚め ていながらいだく考えがほんとうかどうかを疑う理由になるはずは少しもないということはわけなく認識できるのです。というのも、眠っているのにひじように まぎれのない考えが何か思い浮かんだとしても、たとえば〈幾何学者〉が何か新しい論証を考え出すというようなことが起こっても、眠っていたからといってそ の論証がほんとうでなくなるということはありますまい。また私たちの夢のいちばんふつうの迷いは、夢が外部感覚と同じ仕方でいろいろな対象を再現してくれ る点にありますが、その迷いがきっかけとなってそうした観念がほんとうかどうかについて私たちが不審をいだくようになってもかまいません。そうした観念は また、私たちが限ってもいないのに、私たちをたびたび欺くおそれがあるからです。黄疸にかかった人たちに何でも黄色く見えたり、天体やはるか遠くにある物 体が実際よりずっと小さく見えたりするばあいのようにです。というのも、けっきょく、目を覚ましていようと眠っていようと、私たちはけっして私たちの理性 の明白さだけにしか自分を説得させてはならないからです。しかも注意すべきことは、私たちの理性の、と私は言っているのであって、私たちの想像力の、とも 感覚の、とも言っているのではないことです。たとえば、私たちには太陽がひじょうにはっきり見えますけれども、だからといって見えるとおりの大きさしかな いと判断してはなりませんし、山羊の胴体にライオンの頭をつ、ぎたしたのをまぎれもなく想像することはできるにしても、だからといってこの世にそういうキ マイラという怪獣がいると結論してはなりません。というのも理性は、そんなふうに私たちが見たり想像したりするものがほんものだとは告げていないからで す。そうではなくて理性は、私たちの観念なり知見なりがいくらか真理の基礎を持っているはずだとはっきり告げているのです。というのも完全無欠で真正無比 の神が、そういうこともなしに観念なり知見なりを私たちのうちに置いたということはありえないでしょうから。そして私たちの想像力は眠っているあいだも目 を覚ましているあいだと同じくらいかあるいはいっそう生き生きしてあざやかなばあいがときどきあるとはいえ、私たちの推論は眠っているあいだには目を覚ま しているあいだほど明白でもなければ、すきのないものでもないために、理性はまたこう告げるのです。つまり私たちは完全無欠ではないから、私たちの考えも ぜんぶがぜんぶほんとうとはかぎらず、私たちの考えが帯びている真実さは、夢のなかよりもむしろ、目を覚ましていながらいだく考えのなかにまちがいなく見 あたるはずだと。

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