レヴィ=ストロース「呪術師とその呪術」ノート
Magician and his/her magic
George Hunt, 1854-1933
解説:池田光穂
●呪術的方法の効果
その外部からの説明にキャノン(Walter Bradford Cannon, 1871-1945)のブードゥー・デス論文を引用し、呪術による死亡が心身相関の医学理論から説明できることを示唆する (pp.183-5)。しかしながら、その効果は(それ以前に)「呪術への信仰」がなければ期待できない。そして著者によれば、その信仰は相互に補う3つ の要素からなりたつ。 すなわち、(1)当該の社会集団が抱く信頼と要求、(2)患者や被害者の呪術師の術の効験に対する信仰、(3)呪術師の自分自身の術に対する信仰、であ る。(しかしながら、シャーマニズム複合ともいうべきこれらの要素を(完全に)分離することは不可能である。p.197)
そして、それらのそれぞれに問題が設定される。(1)「例外的能力」はどのように信じられ、またどのように批判されるか?、(2) ’呪術師の告発は集団の合意に基づくが、そのとき告発された人間はどのように行動し抗弁するか?、(3)’呪術師が患者に対してトリックを用いるとき、術 師からはそれをどう意識するか?。それぞれの問題は著者が掲げる3つの事例に対応する。
The time has come to
examine a subject far too rarely discussed in our public schools.
Well-documented examples of
voodoo death have emerged from all sorts of traditional non-westernized
cultures. Someone eats a forbidden food,
insults the chief, sleeps with someone he or she shouldn't have, does
something unacceptably violent or blasphemous.
The outraged village calls in a shaman who waves some ritualistic
gewgaw at the transgressor, makes a voodoo doll,
or in some other way puts a hex on the person. Convincingly soon, the
hexed one drops dead. |
公
立学校で取り上げられることがあまりに少ないこのテーマを検証する時が来た。ヴードゥー教による死の例は、伝統的な非西洋文化圏のあらゆる場所で文書化さ
れている。誰かが禁断の食べ物を食べたり、族長を侮辱したり、寝てはいけない相手と寝たり、容認できない暴力的なことや冒涜的なことをする。憤慨した村は
シャーマンを呼び、儀式的な道具を振りかざしたり、ヴードゥー人形を作ったり、何らかの方法でその人格に呪いをかける。呪いをかけられた者は、すぐに納得
して死んでしまう。 |
The Harvard team of
ethnobotanist Wade Davis and cardiologist Regis DeSilva reviewed the
subject.* Davis and
DeSilva object to the use of the term voodoo death, since it reeks of
Western condescension toward non-Western
societies—grass skirts, bones in the nose, and all that. Instead, they
prefer the term psychophysiological death, noting
that in many cases even that term is probably a misnomer. In some
instances, the shaman may spot people who are
already very sick and, by claiming to have hexed them, gain brownie
points when the person kicks off. Or the shaman
may simply poison them and gain kudos for his cursing powers. In the
confound (that is, the source of confusion) that
I found most amusing, the shaman visibly puts a curse on someone, and
the community says, in effect, "Voodoo
cursing works; this person is a goner, so don't waste good food and
water on him." The individual, denied food and water, starves to
death; another voodoo curse come true, the shaman's fees go up. |
ハー
バード大学の民族植物学者ウェイド・デイヴィスと循環器学者レジス・デシルヴァの研究チームは、このテーマについて検討した。その代わりに、彼らは心理生
理学的死という用語を好むが、多くの場合、その用語さえも誤用であろうと指摘する。場合によっては、シャーマンはすでに重い病気にかかっている人を見つ
け、呪いをかけたと主張することで、その人格が蹴り飛ばされたときに得をすることがある。あるいは、シャーマンは単に毒を盛るだけで、その呪いの力で賞賛
を得ることもある。私が最も面白いと思ったコンファウンド(つまり混乱の元)では、シャーマンが目に見える形で誰かに呪いをかける。食べ物も水も与えられ
なくなったその人は餓死し、またヴードゥーの呪いが現実になり、シャーマンの報酬は上がる。 |
Nevertheless, instances of
psychophysiological death do occur, and they have been the focus of
interest of some great
physiologists in this century. In a great face-off, Walter Cannon (the
man who came up with the fight-or-flight
concept) and Curt Richter (a grand old man of psychosomatic medicine)
differed in their postulated mechanisms of
psychophysiological death. Cannon thought it was due to overactivity of
the sympathetic nervous system; in that
scheme, the person becomes so nervous at being cursed that the
sympathetic system kicks into gear and vasoconstricts
blood vessels to the point of rupturing them, causing a fatal drop in
blood pressure. Richter thought death was due to too much
parasympathetic activity. In this surprising formulation, the
individual, realizing the gravity of the curse,
gives up on some level. The vagus nerve becomes very active, slowing
the heart down to the point of stopping—death
due to what he termed a "vagal storm." Both Cannon and Richter kept
their theories unsullied by never examining
anyone who had died of psychophysiological death, voodoo or otherwise.
It turns out that Cannon was probably right.
Hearts almost never stop outright in a vagal storm. Instead, Davis and
DeSilva suggest that these cases are simply
dramatic versions of sudden cardiac death, with too much sympathetic
tone driving the heart into ischemia and
fibrillation. |
と
はいえ、精神生理学的な死は実際に起こっており、今世紀に入ってからも、偉大な生理学者たちの関心の的となっている。ウォルター・キャノン(闘争か逃走か
の概念を提唱した人物)とカート・リヒター(心身医学の大家)は、心理生理学的死のメカニズムについて異なる見解を示した。キャノンは交感神経系の過活動
によるものだと考えた。この図式では、人格が呪われたことに神経質になり、交感神経系がギアを上げて血管を破裂させるほど収縮させ、致命的な血圧低下を引
き起こす。リヒターは、死は副交感神経の働きすぎによるものだと考えた。この驚くべき処方では、呪いの重大さに気づいた患者は、あるレベルで諦める。迷走
神経が非常に活発になり、心臓が止まるほど遅くなる。キャノンもリヒターも、ヴードゥーであろうとなかろうと、精神生理学的な死によって死亡した人物を決
して調べないことで、自分たちの理論を汚さないようにしていた。キャノンはおそらく正しかったのだろう。迷走神経の嵐で心臓が完全に止まることはほとんど
ない。それどころか、デイビスとデシルバは、これらの症例は単に心臓突然死の劇的なバージョンであり、交感神経の緊張が強すぎて心臓が虚血と細動に追い込
まれたのだと示唆している。 |
All very interesting, in that it
explains why psychophysiological death might occur in individuals who
already have
some degree of cardiac damage. But a puzzling feature about
psychophysiological death in traditional societies is that
it can also occur in young people who are extremely unlikely to have
any latent cardiac disease. This mystery remains
unexplained, perhaps implying more silent cardiac risk lurking within
us than we ever would have guessed, perhaps
testifying to the power of cultural belief. As Davis and DeSilva note,
if faith can heal, faith can also kill. |
す
でに心臓にある程度の障害がある人に精神生理的死が起こる理由を説明するという点では、非常に興味深い。しかし、伝統的な社会における精神生理学的死に関
する不可解な特徴は、潜在的な心疾患を持つ可能性が極めて低い若者にも起こりうるということである。この謎はいまだ解明されていない。おそらく、われわれ
が想像している以上に、われわれの内には静かな心臓リスクが潜んでいることを暗示しているのだろうし、文化的信念の力を証明しているのかもしれない。デイ
ビスとデシルバが述べているように、信仰が癒しをもたらすなら、信仰は殺しももたらすのである。 |
*
Wade Davis is the favorite ethnobotanist of horror movie fans far and
wide. As detailed in the reference section, his prior research
uncovered a
possible pharmacological basis of how zombies (people in a deathlike
trance with no will of their own) are made in Haiti. Davis's Harvard
doctoral
dissertation about zombification was first turned into a book, The
Serpent and the Rainbow, and then a schlocky horror movie of the same
name—a
dream come true for every graduate student whose thesis is destined to
be skimmed briefly by a distracted committee member or two. |
ウェ
イド・デイヴィスは、広くホラー映画ファンに愛されている民族植物学者である。参考文献の項で詳述したように、彼の先行研究は、ハイチでゾンビ(自分の意
思を持たず死のようなトランス状態にある人々)がどのようにして作られるのか、その薬理学的根拠の可能性を明らかにした。ゾンビ化に関するデイヴィスの
ハーバード大学博士論文は、まず『蛇と虹』という一冊の本になり、その後同名のシュクロッキーなホラー映画になった。 |
Robert_M_Sapolsky-Why_Zebras_Dont_Get_Ulcers.pdf pp.30-31 |
Robert_M_Sapolsky-Why_Zebras_Dont_Get_Ulcers.pdf |
Why zebras don't get ulcers : an
updated guide to stress, stress-related diseases, and coping / Robert
M. Sapolsky, New York : W.H. Freeman and Co. , c1994. |
ロバート・サポルスキー |
●「例外的能力」はどのように信じられ、 またどのように批判されるか?[事例 A]pp.185-188
著者自身の調査事例。ナンビクワラ族に起こった、一見非合理な出来事(雷が男を何キロも遠方に連れ去り、身ぐるみ剥いだ後に元の場所 に帰した)について。公の見解とそれと意見を異にする別の非公的な見解の並立についての解説と、著者によるその受容の社会的説明が提示される。(→その細 部についてはここでは議論しない/本文参照)
[結論]相異なる解釈のうち、特定の解釈が受容されてゆくとき、客観的分析が試みられるのではなく、個人の経験に基づくぼんやりとし た(ひとつの解釈に対する)態度が要求するデータに従って決定されてゆく。そのような決定は、「集団の文化の中に浮動する特定の図式」によってなされる。 この図式への同化によって、「主観的状態を対象化」でき、「いいあらわし難い印象をいいあらわ」し、「分節されぬ経験を体系へと統合することができる」。 (p.188)
●呪術師の告発は集団の合意に基づくが、 そのとき告発された人間はどのように行動し抗弁するか?[事例 B]pp.188-192
M・C・スティーブンソンの調査事例。ズニ族において呪術使用の容疑で告発された少年が、それに抗弁できないことが分かると、今度は 呪術を行なったという証言を、次々と創造したが、それによっても許されず、偶然に見つかった(事物をもって)「証拠」(と自分ででっち上げ)とし、最終的 に自分の失った呪術力について嘆き悲しむことによって、聴衆から解放された。「議論は、われわれの裁判のように、告発と否認によってではなく、申し立てと 詳細の明示によって進行する。裁判官は、被告が論告に異義を申し立てたり、まして事実の反証をあげたりすることを期待しない。彼ら(=裁判官)は、自分た ちが断片しか所持していない体系を強化するように、彼を求めるのであり、残りの部分を適切なしかたで彼が再構成することをのぞんでいる。」(p.190)
●呪術師が患者に対してトリックを用いる とき、術師からはそれをどう意識するか?[事例 C]pp.192-201(著者がとりわけ注意を喚 起する箇所)
フランツ・ボアズの採集した調査事例に基づく、クワキウトル(Kwakwaka'wakw)・インディアンのケサリードという男性の例(ケサ リー ドの本名はジョージ・ハント[George Hunt, 1854-1933]言いボアズのインフォーマントで友人であった)。
A.ケサリードは、呪術師たちのトリックを知りたい、あるいは暴露したいという好奇心で彼らを訪問する。弟子入りの後、彼は呪術師の種々のト リックにつ いて知ることになる。(→「虚偽とトリックの倫理的問題」にその手管は引用列挙した。)しかし、その時点で彼は周囲からシャーマンの弟子であることを認知 されており、彼自身にも「治療」の依頼がくる。その治療では大成功を収めたが、ケサリードはその治療がトリックであることを知っており、病人の彼への過剰 な信頼がそれを治療なさしめたと解釈する。
B.コスキモー族のシャーマンを訪れたあたりから、ケサリードの治療に関する信念は徐々に変化してゆく。コスキモーの治療師は、たん に口から唾を出してそれを病気の原因だと称する。ケサリードはこの治療法で回復しなかった婦人を、血塗れの綿毛のトリックによって見事に回復させるのであ る。このことは(自分が不誠実な治療を行なっていたことを自覚している)ケサリード本人をさらに困惑させた。信用を失ったコスキモー族のシャーマンたちは 秘密の会議を開催し、ケサーリドにも同席を求めて彼ら自身の病因論・疾病論を解説した。コスキモーたちによると、病気は災いをおこす人であり、病気の魂を シャーマンが捕まえるやいなや病気は死に、その病気の肉体はシャーマンの体内において消失するという。ケサリードがなぜ病気を眼に見えるかたちで示したの かについて、コスキモーたちは質問をしたが、彼は修行中を理由に答えることを拒否した。処女と称して彼にもとに遣わされた女性の誘惑にも彼は耐える。
C .ケサリードは次に高名なシャーマンの験比べの挑戦を受ける。彼はケサリードが見破れなかったテクニックを用いて施術するが、またしてもケサリードが 勝利する。名誉が失墜した老シャーマンはケサリードにその血塗れの虫の術について説明を求める。ケサリードは老シャーマンが使ったテクニックを聞き出す が、自分のものについては語らなかった。威信を失った老シャーマンは家族と共に夜逃げをし、悲劇的な最後を迎える。
D .ケサリードはその後、他の治療師のトリックを暴露しながらも、自分の治療を続けた。そのような多様な経験を積んだ彼にも見破るこ とができなかった技術をもつシャーマンがいるという。彼によると、そのシャーマンが本物である証拠として、癒された人々から報酬を受け取らなかったこと と、彼が一度も笑ったことがないことを挙げている。
●ケサリードにおけるシャーマン的転回に ついてのL=Sの解釈
レヴィ=ストロースによると、それはケサリードの初期の虚偽の暴露という最初の動機から浮上し、本物のシャーマンが存在するに至った という確信は「彼がその職業を誠実に遂行していること」(p.196)を如実に証明するものだとしている。→「で、彼自身はどうか。物語の終りにきても、 それはわからない。しかし、彼がその職業を誠実に遂行していること、その成功を誇っていること、また対抗するすべての流派に対して、血まみれの綿毛の技術 を熱烈に擁護していることは明らかであり、はじめはあれほど嘲笑していたこの術の欺瞞性のことは、すっかり忘れてしまったかに見えるのである。」 (p.196-7)
●科学的根拠の可能性についての著者の立 場
クワキウトル族およびその周辺のインディアンたち治療者たちは、実証的な知識や効果のある技術体系をもっていた。従って彼らの治療は (我々から見ても)完全に荒唐無稽なものというわけではない。それ以上にシャーマニズム複合というものがあり、心身相関的に「心理療法」としてその治療効 果を解釈することもできる。しかし、それ以上に大切なことは、(シャーマンの治療の効果を決定する?/それゆえにその効果を比較することができる)集団と シャーマン個人の関係について考察することである。→「ケサリードは病気をなおしたから大呪術師になったのではなく、大呪術師になったから病気をなおした のだ」(p.198)
●他のシャーマンたちはなぜ壊滅したか?
まず、彼らの壊滅の原因は(その時の)彼ら自身の態度の中に求めるべきである、とL=Sは指摘する。「世間の物笑いになったと嘆 き、‥‥その屈辱感を表に出す」(p.199)ことは、その壊滅が(シャーマンと集団との)社会的合意の失敗にあることを示唆する。
このL=Sの理屈を敷衍すると、ケサリードの成功は非常にパラドクシカルである。もともと彼自身はシャーマンのトリックを暴こうとし てこの道に入ったのであり、シャーマンとしての名声を獲得するという野心が無かった。野心とはシャーマンとして認められるという社会的合意を取りつけるこ とである(=野心が無ければ失望することはない)。また、他のシャーマンたちが験比べに敗北したとき、彼に対して(秘密であった)自分たちの治療理論や技 術を容易に教示した/それは彼らにしてみれば「情報の取り引き」ための代価であった。しかし、彼は「修行中」の身であることを盾に、その取り引きに応じな かった。彼は他者の知識と技術——その中には(レ)トリックも含まれる——を、その本性を暴くという目的性ゆえに、一方的に享受し、自らの情報を漏らすこ とはなかった。結果的に、彼の動機とは裏腹に、彼自身がシャーマンのなかのシャーマンとして成長してゆくのである。
[【註】余談であるが‥‥だがこれ自体をメタ物語として理解すると、ケサリードは自分の物語をF・ボアズに告白し、それが記録・出版さ れることによって、彼自身の当初の目的は最終的に遂行したことになりはしないか。]
●199ページ以降のL=Sのシャーマニ ズムの治癒効果論について mas de la capacidad de mis conocimiento,.... Y, especificamente no hay tantas relationes de mi discusion .
[解除反応abre'action→本文中に「消散」p.199]カタルシスによって生じる治療的現象。過去の不快な心的外傷体験にも とづく無意識的に抑圧された記憶や感情が意識化され再現されて、心の緊張が解放されること。意識的な禁圧による内容が表現される「告白」とは区別して考え られるが、臨床的には同時におこることも多く区別しにくい。(『精神医学事典』弘文堂,p.69)
★この論理によると(ブードゥーデスを)
「信じるものは死に、信じないもは死なない」という結論になります。聖書のいう「信じるものは救われる」という言葉は、ほどほどに考えるべきです。信じて
いても、信じていなくても、救われる者は別の要因で救われ、救われない者は別の要因で救われないからです。その方の信念と、その方の救済との関係は、なん
の因果関係もありません。
クレジット:呪術師とその呪術(レヴィ=ストロース)・ノート
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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
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